イエス・キリストが磔刑になった際にキリストを刺したとされる槍。この槍を持っていたローマ兵士の名前から、ロンギヌスの槍とも呼ばれた。
聖ロンギヌスの伝説
当時の磔刑は、槍で刺し殺すのではなく、十字架に打ち付けて野ざらしにする刑罰だった。磔にされた人間は姿勢が保てなくなって息ができなくなり、衰弱して死に至るといわれる。槍での刺突は、その受刑者の死を確認するために行われた。
『聖書』には、ロンギヌスの名は見えない。ただ「ヨハネによる福音書」に「兵士のひとりが彼の脇腹を突き刺すと血と水が流れ出た」とのみ記述されている。
ロンギヌスが登場するのは、正式な聖書(正典)には採用されなかった外典と呼ばれるものの一つ『ニコデモの福音書』(『ピラト行伝』)。この外典の成立は4世紀とされるが、以後も加筆がなされたと考えられている。
さらに13世紀、ジェノヴァの大司教ヤコブス・デ・ウォラギネが、100以上の聖人伝をまとめた大著『黄金伝説』でこれを取り上げた。
『黄金伝説』によれば、槍を伝い落ちたキリストの血が偶然ロンギヌスの眼に入ると、病気のためか年齢のためか弱っていたその目が明るい視力を取り戻したという。ロンギヌスはその後洗礼を受け、現在のトルコ中央部にあるカッパドキア地方のカイサリアで28年間にわたり修道士のような生活を送ったのち、迫害されて殉教したとされる。
アルメニアのエチミアジン大聖堂
西暦301年に世界で最初のキリスト教国家となったアルメニアのエチミアジン大聖堂には、ロンギヌスの槍が展示されている。
言い伝えによれば、迫害を逃れてアルメニアにやってきた12使徒の一人タダイが、この槍を持っていた。タダイは、槍のために異教徒に恐れられ、殺害されるが、彼の弟子たちが槍を受け継いで隠し持っていたという。その後、槍の行方がわからなくなるが、現在のゲルカド修道院のある場所で発見されたと伝えられる。
ビザンツ帝国の聖遺物
中世ヨーロッパでは、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルにロンギヌスの槍が保管されているとする見方があった。この槍は4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母后ヘレナが聖十字架とともにエルサレムで発見し、614年にペルシアの侵攻を契機としてコンスタンティノープルに移されたとされる。
1241年(仁治二年)、当時コンスタンティノープルを支配していたラテン帝国のボードワン2世から、フランス王ルイ9世に譲渡された一連の聖遺物の中にこの槍の一部が含まれていた。ルイ9世は、これら聖遺物を保管するため、パリにサント・シャペル聖堂を建立。聖堂内のグラン・シャッスと呼ばれる容器の中に安置し、毎年聖金曜日に王手ずから人々に呈示したといわれる。しかしサント・シャペル聖堂の聖遺物は、後のフランス革命期に行方不明となった。
一方、コンスタンティノープルに残された槍は、1453年(享徳二年)のビザンツ帝国滅亡時にオスマン朝のスルタンの所有となったという。その後1492年(明応元年)、オスマン朝のバヤズィト2世から教皇インノケンティウス8世に贈られ、以来、サン・ピエトロ大聖堂に置かれているともいわれている。
神聖ローマ帝国の帝国宝物
神聖ローマ帝国にも、聖槍が帝国宝物として継承されていた。926年(延長四年)、東フランク王国(神聖ローマ帝国の前身)のハインリヒ1世がイタリアのランゴバルド王国から入手した頃は、キリストを傷つけた槍と同一視されていた可能性があるという。しかし、同国とビザンツ帝国の関係が密になる中で、自国の聖槍は、聖マウリティウスの槍とする考え方が定着するようになったらしい。
しかし14世紀半ば以降、皇帝カール4世のプロパガンダ等により、再び聖槍はキリストの受難と関連付けられるようになったといわれる。15世紀にニュルンベルクで行われた展観行事では、「これが我らの主イエス・キリストの脇腹を開き、甘い心臓を傷つけたのである」と説明されている。