戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

イズニク Iznik

 アナトリア西部の都市。古名はニカイア。13世紀前半のイスラムの地理学者ヤークートの著作にはアズニークとしてみえる。紀元前4世紀には存在し、ローマ帝国の都市としても長い歴史を持つ。14世紀に初期オスマン朝の拠点となり、16世紀にはイズニク陶器の生産地としても知られた。

ローマ帝国都市ニカイア

 イズニクは古名をニカイアといい、紀元前4世紀末にこの名を持つようになったという。この町を含む地域の古名はビテゥニアであり、町はイズニク湖(古名はアスカニア湖)の東端に位置する。湖側を含む周囲には壮大な城壁が四つの主要な城門とともにめぐらされており、その遺構は現在もところどころに現存している。

 ローマ帝国時代の325年、コンスタンティヌス帝により召集されたキリスト教の第1回公会議がニカイアにおいて開催された。後に東ローマ帝国時代の787年にも第7回公会議が開催されており、ニカイアはキリスト教史上でも重要な役割を果たしている。

 1071年(延久三年)、マラーズギルドの戦いで東ローマ帝国はアルプ・アルスラーン率いるセルジューク朝と戦い、皇帝ロマノス4世ディオゲネスが捕虜となる大敗を喫する。

 この結果、東ローマ帝国の勢力は後退し、アナトリアにはムスリムとなっていたトゥルクマーン系遊牧民の進出が始まる。1074年(承保元年)から1075年(承保二年)の間、ニカイアはセルジューク家の一員であるスライマーン・ブン・クタルムシュによって征服され、スライマーンが建国したルーム・セルジューク朝の最初の首都となった。

 後に東ローマ帝国はニカイア奪還のため、ローマ教皇に援助を要請。1095年(嘉保二年)9月、これにこたえた教皇ウルバヌス2世により十字軍発動の提議・勧説が行われた。1097年(承徳元年)、東ローマ帝国首都コンスタンティノープルに集結した第1回十字軍は、東ローマ帝国軍とともにアナトリアに渡ってニカイアを包囲。ニカイアは東ローマ帝国に降伏し、以後、この町は東ローマ帝国支配下に戻った。なお十字軍はニカイア攻略後も進軍を続け、2年後の1099年(康和元年)にエルサレムに到達した。

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 1204年(元久元年)4月13日、第4回十字軍とヴェネツィアの勢力によってコンスタンティノープルが占領される。この時、東ローマ帝国の貴族の一部がニカイアに逃れて、この地を首都として東ローマ帝国ニカイア帝国とも呼ばれる)を復興。同国が1261年(弘長元年)にコンスタンティノープルを奪回するまで、その宮廷はニカイアに置かれていた。

オスマン朝による征服

 14世紀に入るとルーム・セルジューク朝の勢力は衰退。アナトリア西部には「ウジのベイリク」*1と呼ばれる地方政権が叢生し、互いに覇を競うようになる。

 中でもコンスタンティノープルに最も近いビテゥニア東部に本拠を持っていたオスマン家が勢力を拡大させていった。1331年(元弘元年)5月、ニカイアはオスマン朝第2代の君主オルハン・ベグに包囲され陥落。以後、初期オスマン朝の重要拠点となった。またオスマン朝支配下ではニカイアはイズニク(ヤズニーク)と呼ばれるようになった。

 オスマン朝のもとでイズニクではマスジド(モスク)の建設が進められた。イズニクの町にあるハーッジーウズベク・マスジドには、このマスジドがヒジュラ暦734年(1333年-1334年)に建設されたことを刻んだ碑板が残されている。これ以前の年代記録を持つ建築物は、オスマン朝の当時の領土内で見つかっていないことから、現存する最古のオスマン朝時代の建築物とみなされている。

 このほかにも1345年から1346年の間に建設が命じられたマスジド(モスク)に附された碑板や、初期オスマン朝時代の功臣であったチャンダルル一族によるマスジド建設を示す碑板など、イズニクには14~15世紀のアラビア文字碑板が残されている。

イブン・バットゥータ旅行記

 1331年(元弘元年)11月ごろ、オスマン朝に征服されて間もないイズニクの町を、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータが訪れている。ブルサからイズニクに向かったバットゥータは、クルラという村から丸一日ほど河川を船ですすんでイズニク湖畔に到達し、湖水が町の周囲を取り囲むイズニクの町に入ったという。

 バットゥータの見たイズニクの町は、すっかり荒廃した状態となっていた。住人はスルタン(オルハン・ベグ)の妻ニール―ファル・ハートゥーンとその指揮下の少数の家臣たち以外にいなかったと記している。オスマン朝による包囲戦で町が荒廃し、多くの住民が他所に移住していたことがうかがえる。

 町の様子については、以下のように記している。

その町を囲んで、四重の市壁があり、各々二つの市壁の間には堀があって水が溜まっており、木橋を渡って町中に入ることが出来る。(中略)

町の内部には、果樹園、屋敷、空地や耕作地があって、住民たちはそれぞれ自分の館、農地と果樹園をすべて一緒に所有している。町の飲料水は、そこにある水深の浅い井戸から取られる。町にはあらゆる種類の果実、胡桃、栗が実に豊富にあり、しかも安価である。(中略)

そこには処女葡萄*2があり、私はこれに類するものを他では全く見たことが無く、極めて甘みが強く、粒も大きく、透き通るような色と薄い表皮であり、一房に一粒の種が入っている。

 バットゥータはイズニクに住む法学者に宿の提供を受け、前述のニール―ファル・ハートゥーンにも面会。滞在中にウルハン・ベグもイズニクに到着している。

16世紀のイズニクの産業

 16世紀に記された記録によれば、イズニクはオスマン朝の宮廷で使用される薪や、首都イスタンブルの市場に出回る玉ねぎの提供地であった。また、この地に住むキリスト教徒がワインを製造してムスリムに売ることを禁止する勅令もこの時代に出されている。1571年(元亀二年)2月には、大発生したイナゴの対処に関する文書もあり、イズニクでは穀物栽培をはじめとする農業がかなり進んでいたと推定されている。

 またイスタンブルへの石材供給に関する記録も多い。町には石工が数多くいたが、他にも様々な職人たちが暮らしていた。16世紀後半になると、イズニク陶器の生産が隆盛となり、これにともないイズニクの陶工たちに関する記録が多くなっていく。

 イズニクの陶工がみえる比較的古い文書としては、1570年(元亀元年)のものがある。そこには、イズニクの4人の陶工(ハジュ・メフメット、ファズル・ハリフェ、ヤズジュオール、アフメット)に対し、仕事の内容は不明であるが、道具持参のうえイズニクからイスタンブルに出仕するように命令する内容が書かれている。

イズニク陶器

 イズニクでは15世紀から陶器の生産がはじまったとみられている。イズニク陶器は16世紀に入って技術的に大きな発展をみせ、16世紀中頃からはモスクや廟墓などの建築物を装飾するための陶器タイルの生産も盛んとなった。

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 陶器やタイルの生産に使われたとみられる窯跡は、周囲5キロメートルの市壁に囲まれている市街地内に集中し、12、3個が確認されている。それらはアヤ・ソフィアやハムザ・ベイ・ハマムなど歴史記念建造物が集中する町の旧市街区を中心に市壁内の様々な所に散在しているという。

 イズニクの陶器はイスタンブルの街の市場でも購入できるようになっていたが、ヨーロッパやエジプトなど国外にも移出された。江戸初期の日本にもイズニク陶器は持ち込まれており、東京都文京区本郷の加賀藩本郷邸跡からは17世紀前半のものとみられるイズニク陶器の白地多彩花文皿がみつかっている。

 ただイズニク陶器は16世紀末から衰退の傾向が出始め、17世紀に入ってますます衰退。18世紀初頭にはタイルの供給地をキュタヒヤにとって代わられてしまう。

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参考文献

イズニク陶器のタイル 16世紀後半
ルーブル美術館サイトより

イズニク陶器のタイル 1550年頃 - 1599年頃
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

ニカイア公会議の司教たち 1704年
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

*1:「ウジ」はトゥルク語で「端、辺境」の意味。ベイリクはベグ(ベイ)を首長に戴く地方政権のこと。「ベグ」は突厥時代から用いられる古いトゥルク語で、本来は軍事指導者、貴人、君長などの意味を持つ。

*2:乙女の指のような形の葡萄の意味。イドリースィーによると、極西マグリブの特産品の一つ。