戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

キュタヒヤ Kütahya

 アナトリア西部の都市。サカルヤ川上流のポルスク・チャイ平原の南西端に位置する。中世、ゲルミヤン君侯国の中心都市として栄え、後にオスマン朝の支配がおよんだ。同じアナトリア西部のイズニクとならんで窯業が盛んであった。

紀元前からの都市

 キュタヒヤは古い史料にはコティアエイオン、コティアイオン、コティアエイウム、カティヤイウムという名称で記された。

 紀元前8世紀にアナトリアで建国されたフリュギア王国の都市であり、その後はペルシアのアケメネス朝、続いて紀元前4世紀にはマケドニアアレクサンドロス3世の支配下におかれた。ビテュニア王国、アッタロス朝(ペルガモン)に属した後、紀元前2世紀にはローマ帝国の都市となる。

 4世紀に成立した東ローマ帝国においては、重要な窯業の中心地であったという。また多くの教会や修道院が建設され、キュタヒヤは初期キリスト教の中心地の一つでもあった。現在のキュタヒヤの町の西の高台には、東ローマ帝国時代の城塞跡が残っている。

 1071年(延久三年)、マラーズギルドの戦いで東ローマ帝国セルジューク朝に大敗。この結果、東ローマ帝国の勢力は後退し、アナトリアにはムスリムとなっていたトゥルクマーン系遊牧民の進出が始まる。12世紀、十字軍の軍事力を背景に東ローマ帝国アナトリアに戻るものの、13世紀初頭にルーム・セルジューク朝のカイクバード1世の支配下となった。

ゲルミヤン君侯国

 14世紀に入るとルーム・セルジューク朝の勢力は衰退。アナトリア西部には「ウジのベイリク」*1と呼ばれる地方政権が叢生し、互いに覇を競うようになる。

 その一つ、キュタヒヤを中心拠点とするゲルミヤン君侯国はヤァークブ・ブン・アリー・シールのもとでアナトリア西部を広く支配下におさめた。1331年(元弘元年)、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータアナトリアにやって来たときは、ヤァークブの子メフメド・ベクが同国の首長であった。

 バットゥータはこの時キュタヒヤには訪れていない。ただ、クル・ヒサールからラーズィクの町へ向かう際、「ジャルミヤーン」(ゲルミヤン君侯国)と呼ばれるトゥルクマーンの一団が出没するとして、ハミド君侯国がバットゥータの案内の為に騎馬隊を派遣したことを記録している。またゲルミヤン君侯国が「クーターヒヤ」(キュタヒヤ)と呼ばれる町を所有していたことも書き記している。

 1380年代、キュタヒヤは勢力を拡大したオスマン朝の統治下に入る。1402年(応永九年)にオスマン朝アンカラの戦いでティムールに敗れると、再度ゲルミヤン君侯国の領土となるが、1428年(正長元年)にオスマン朝がゲルミヤン君侯国を吸収。キュタヒヤはオスマン朝の支配する都市となった。

オスマン朝支配下のキュタヒヤの町

 キュタヒヤの高台にある東ローマ帝国時代の城塞跡の東側にはチャルシュ(屋根のある市場)があり、2つのベデステン(内市場)が残る。このうち南側に位置するクチュック・ベデステン(小さなベデステンの意)は14世紀建造のもので、北側のブユック・ベデステン(大きなベデステンの意)は15世紀に建造されたものとされる。

 またキュタヒヤには、ゲルミヤン君侯国時代を含めて多くのモスクが建設されている。1377年(永和三年)に建築されたキュタヒヤ・クルシュンル・モスクや、1487年(長享元年)築のキュタヒヤ・サライ・モスク、15世紀のキュタヒヤ・ウル・モスクなどがある。

 これら建造物の中にはキュタヒヤで生産された陶器タイルが装飾に使われたものもあった。1671/2年、キュタヒヤを訪れた旅行家エヴリヤ・チェレビは、旅行記のなかでチニジ・ケフェレレル地区とキュタヒヤ・タイルの美しさについて述べている。

キュタヒヤ陶器

 上記のキュタヒヤ・タイルの生産は、遅くとも15世紀末までには始まっていた。この時期のワクフ(宗教寄進財産)文書から、キュタヒヤにおける「タイル職人」の存在が確認されている。

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 16世紀、アナトリア西部には陶器およびタイルの生産で知られたイズニクがあったが、同時代のキュタヒヤも同様に窯業が盛んであった。イズニク陶器の特徴とされる「ハリチ手(ゴールデン・ホーン様式)」の陶器は、キュタヒヤでも作られていたことが分かっている。

 16世紀中頃、オスマン朝の大宰相リュステム・パシャはキュタヒヤのバルクル地区に建設させたメドレセ(神学校)の隣にタイル工房を設立。首都イスタンブルのエミノニュ地区において1561年(永禄四年)に建設させた自身のモスクのために、この工房でタイルを製作させたといわれる。

 17世紀に入ると、キュタヒヤの窯業はますます発展し、イズニクと競合するに至る。18世紀には、キュタヒヤのタイルは多くのモスクや教会の装飾に使われ、またバラエティーに富んだ日用品も生産されるようになった。

参考文献

  • V・ベルギン・デミルサル=アルル(訳:山下王世) 「キュタヒヤ・タイル」(飯島章仁 編 『岡山市立オリエント美術館 魅惑のトルコ陶器―ビザンティン時代からオスマン帝国まで―』 岡山市立オリエント美術館 2002)
  • 高橋忠久 「文献資料に記されたオスマン朝期の陶器とタイルについて―イズニクの職人を中心として―」(飯島章仁 編 『岡山市立オリエント美術館 魅惑のトルコ陶器―ビザンティン時代からオスマン帝国まで―』 岡山市立オリエント美術館 2002)
  • 鶴田佳子・高木亜紀子 「トルコにおける市場空間の構成と活用に関する考察」(『学苑』820 2009)
  • 家島彦一 訳 『大旅行記3』 株式会社平凡社 1998

コティアイオンの石碑 3世紀~4世紀
ルーブル美術館サイトより

キュタヒヤで製作されたタイル 17~18世紀
ルーブル美術館サイトより

*1:「ウジ」はトゥルク語で「端、辺境」の意味。ベイリクはベグ(ベイ)を首長に戴く地方政権のこと。「ベグ」は突厥時代から用いられる古いトゥルク語で、本来は軍事指導者、貴人、君長などの意味を持つ。