ミャンマー南部の港マルタバン(モッタマ)から輸出された黒褐釉陶器の壺(あるいは甕)。中には1メートルほどのものもあり、東南アジアからインド洋沿岸地域で確認される施釉甕のなかでは最も大きい。貯蔵の為の容器として航海用に用いられることも多く、戦国期の日本にも持ち込まれている。
航海用の貯蔵容器
マルタバン壺の史料上の登場は14世紀にさかのぼる。モロッコ出身の旅行家・イブン・バットゥータの記録をイブン・ジュザイイが編纂した『大旅行記』にみえる。同書は最終的に1356年(延文元年)に成ったとされる。
マルタバン壺の記述は、インドシナ半島の一角にあったと推定されるタワーリフィー国で、その王女と謁見するくだりに登場する*1。
王女は、幾つもの衣類、象2頭分の米の荷、雌水牛2頭、雌羊10頭、ジュッラーブ4ラトル、マルタバーン壺4個―それは生姜、胡椒、レモンとマンゴーが一杯に入った大壺のことで、そのすべては航海用に準備された塩漬けのもの―を私のために持ってこさせた。
この書によって、遅くとも14世紀前半にはマルタバン壺が存在し、すでにマルタバンの名で呼ばれていたこと、また既に航海用に使われていたことが分かる。ただし、この当時すでに黒釉が施されていたかどうかは、この記述からはわからない。
16世紀初頭にインド南西部のカナノールとコーチンのポルトガル商館に勤務したポルトガル人ドゥアルテ・バルボザは1518年(永正十五年)に地理書『ドゥアルテ・バルボサの書』を著す。同書の港町マルタバンに関する記述の中でマルタバン壺についてもふれられている。
この町ではまた、とても大きくて頑丈で、見た目も美しい陶磁壺が大量に作られている。なかには大樽一杯の水が入りそうなものもある。それらは黒い釉薬が施されており、モール人*2たちの間では大変珍重され高い値がつけられていて、彼らはこうした壺に固まり状になった安息香をたくさん貯蔵して持ち帰る。
この記述から、16世紀初頭のマルタバン壺にはすでに黒釉が施されていたことが分かる。当時のバルボザはインド以東に行った経験はなかったが、詳細な内容であることから、インドの地で実際に壺を見たことがあったのかもしれない。またマルタバン壺自体の価値も高かったことがうかがえる。
なお、マルタバンでは現在のところ窯跡のあった痕跡や証拠は見つかっていない。このことから、マルタバン壺はマルタバンで作られたのではなく、マルタバンから搬出されるためにその名で呼ばれた可能性も指摘されている。
リンスホーテンの記述
オランダ人ヤン・ハイヘン・フォン・リンスホーテンはインドに1583年(天正十一年)から89年(天正十七年)まで滞在し、帰国後に記録をまとめて1596年(慶長元年)に『東方案内記』として出版した。同書のペグ―王国のことが語られる箇所でマルタバン壺についての記載がある。
さて海岸へ戻って(先へ進むと)、ペグ―の最端でシアン(シャム)がそこから始まるマルタヴァンの港町に至る。この町は、インディエで一般にマルタヴァーナと呼ばれている大きな土製の壺をさかんに作って、インディエじゅうに大量に送り出す。
これには大小いろいろな種類があって、なかには2ペイブ(大樽ほどの容量の単位)の液体が十分に入るくらい大きなものもある。どうしてそんなにたくさん輸出されるかといえば、インディエにはポルトガルからもたらされたもののほかには樽がないので、各家庭、各船ではこれを樽の代わりに使って、油、酒、水その他この種のものを貯えるからである。これに貯えておけば非常に長もちして、とくに旅行者にはたいへん重宝なのである。
ポルトガルにもたくさん入っている。インディエ(航海)船上で、水や油などを貯蔵するのに使うからである。
この記述がリンスホーテンのインド滞在中の状況だったとすれば、1580年代にはマルタバン壺は大量に生産され、輸出されていたことになる。またマルタバン壺は、家庭や船で油や酒、水の貯蔵用としてインドで広く使われていたがうかがえる*3。
このあとのミャンマー南部海岸の港市タナッサリン(テナッセリム)で作られるニーベと呼ばれる酒について語った個所では、以下のように記している。
このニーベはインディエの各地、とくにゴアでも醸造される。けれども、タナッサリンのニーベの方がはるかに尊ばれ、また事実上等で、需要が多く、マルタヴァンの大きな壺につめていたるところに輸出される
マルタバン壺が、インドに輸出される酒類の容器としても使われていたことがわかる。
オランダ東インド会社の記録
17世紀、オランダ東インド会社は東南アジア・インドの交易の中で多くのマルタバン壺を運んでいることが、当時の史料から分かっている。
1642年(寛永十九年)、ペグ―からインド・コロマンデル海岸のプリカットに128個の「緑の皿 green dishes」*4と50個のマルタバン壺を積んだ船が着く。同年、コロマンデル海岸北のマスリパトナムからの報告では、ペグ―から200個の大型、150個の小型マルタバン壺が在地の船によってもたらされた。
1644年(寛永二十一年)に亡くなったマラッカのシャーバンダル(外国商船交易や外国人居留地の管理監督者)の財産売り立ての品目に、409個の磁器と12個のマルタバン壺が含まれていた。この12個のうち、5つは塩の入ったマルタバン壺であり、2つには砂糖が入っていたとある。家庭生活用の貯蔵壺として使われていたものと推定されている。
1646年(正保三年)、マスリパトナムからバダヴィア向けの船に、60個のマルタバン壺があった。総原価は1485フロリンであり、一個あたり24.75フロリンとなることから、これらは大型で上質な壺であった可能性があるという。
1651年(慶安四年)、プリカットおよびマスリパトナムからバダヴィア向けの船に、8個の「水を中に貯えておくための大型のマルタバン壺」がある。総原価64フロリンで、一個あたり8フロリンであった。1653年(承応二年)のセイロン向けのマルタバン壺の注文でも一個8フロリンとなっている。前述の1646年(正保三年)の壺と比べると3分の1の原価であり、3倍の価格差があったことになる。
なお、この頃の磁器の原価は、1646年の記録では上質の磁器(fine porcelains)の碗皿類で一個あたりの平均が0.08から0.09フロリン、1647年の粗製の磁器(coarse porcelains)では平均が0.06フロリンであったという。これと比較すると、当時のマルタバン壺は上質磁器の碗皿類の約100倍もしくは300倍の値だったということになる。
1661年(寛文元年)、テナッセリムからインド北西部のスーラト行きの船に、10箱の日本製磁器とともに65個のフルサイズおよびハーフサイズのマルタバン壺があった。ここからマルタバン壺にも大中サイズの違いがあったことが分かり、先述のリンスホーテンの「大小さまざま」があるという記述と一致する。
琉球・日本での出土
マルタバン壺は琉球および日本にも運ばれていた。琉球では首里城跡から小片が出土しており、1条線の装飾があることから16世紀以前のものである可能性があるとされる。
日本では筑前博多や豊後府内(大分市府内町遺跡)からマルタバン壺とみられる黒褐釉陶器壺が出土。博多は室町期には東南アジアとの交易があり、豊後府内は戦国期に活発な東南アジア貿易を展開した大友氏の本拠地であった。府内町遺跡のものは、垂直方向2条線1点装飾、コ字形口縁をなし、頸部比1/3.5の逆卵形をなす大型品であり、耳は縦方向に3個付いている。16世紀のものとみられている。
ほかにも長崎市岩原目付屋敷跡からマルタバン壺が出土しており、長崎市の諏訪神社にはマルタバン壺とみられる大壺が伝世している。
参考文献
- 津田武徳 「ミャンマー施釉陶磁:生産技術と編年のための史料 (第1部:東南アジア産施釉陶磁器の生産技術と編年,<特集>東南アジアの土器と施釉陶磁器)」(『上智アジア学』23 2005)
- 坂井隆 「インド洋の陶磁貿易―トルコと東アジアの交流をめぐって―」(『上智アジア学』23 2005)
- 佐々木達夫・野上建紀 「インド洋海域交易で運ばれたミャンマー青磁」(『多文化社会研究』5 2019)
*1:この場面は、イブン・バットゥータの体験した物語の形をとっているが、バットゥータは実際には東南アジアや中国には行っていないと考えられている。この箇所をふくむ東南アジアにかんする記述は、編纂者イブン・ジュザイイがバットゥータから聞き取った話に当時の書物や諸情報を織り交ぜて語ったものと考えられるという。
*2:モール人(またはムーア人)とは、もともとスペイン人がイベリア半島のイスラーム教徒を「モロ」と呼んだのに発する言葉。ここではインド系をふくめたイスラーム商人を指すと推定されている。
*3:別の箇所では「船長のカピテーン、操縦長から商人、乗客にいたるまでめいめいが、自分の食糧と、マルタヴァーナと称するインディエの大きな壺(ポット)に飲み水を入れて所持している。」とも述べている。