戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

モートゥパッリ Motupalli

 インド東岸のコロマンデル海岸北部の港町。13・14世紀、カーカティーヤ朝やレッディ朝の時代、周辺の港町との交易だけでなく、中国やペルシア方面を結ぶ東西貿易の拠点として栄えた。ヴェネツィア人のマルコ・ポーロ旅行記にも、13世紀末のモートゥパッリが記述されている。

マルコ・ポーロ旅行記

 モートゥパッリは、マルコ・ポーロ旅行記において、13世紀末に彼が訪れたという「ムトフィリ」(モートゥパッリ)王国として言及されている。旅行記(『東方見聞録』)によれば、当時のムトフィリ王国にはとても賢明な女王が在位しており、住民は偶像教徒で、外国のどの国にも入貢していないとする。また王国にはダイヤモンドを産する山が少なくなく、良質なものが実に豊富であったという。このほか、他に比類のない良質で立派な硬麻布が織造されており、それだけに値段も高い、と記している。

 ただし、旅行記ではムトフィリ(モートゥパッリ)を「王国」として述べているが、実際には海港モートゥパッリの西北方に広がるデカン高原東部一帯を支配したカーカティーヤ朝を指している。女王とされているのは、カーカティーヤ朝第8代のルドラーンバー(1262ー1296)とみられる。

 さらに、この地が北方ムスリム政権のデリー・スルタン朝の支配を受けるようになるのは14世紀初頭のことなので、偶像教徒(ヒンドゥー教徒)の国とする点も含めて、この辺りのマルコ・ポーロ旅行記の記述は正確であるとされる。

 カーカティーヤ朝南部を流れる大河クリシュナー川の渓谷は、ダイヤモンドの産地として名高い。有名な巨大ダイヤモンド「コーイヌール」も、元来このクリシュナー渓谷で採れ、その後数奇な運命をたどって英国王室の宝冠を飾ることになったのだとも言われている。

カーカティーヤ朝の商人保護

 モートゥパッリのヴィーラバドラスワーミン寺院前殿の石柱にテルグ語サンスクリット語で刻まれた1244年(寛元二年)の刻文がある。上述の女王ルードラーンバーの父ガナパティデーヴァ王による詔勅を記したもので、下記のような内容が刻まれている。

栄光あるガナパティデーヴァ大王によって、すべての大陸、外国、町々からやって来る、また、そこに行く商人たちに対して、保護を与える詔勅が発せられた。

かつての王たちは、ある国から他の国に向かって出帆し、金、象、馬、宝石などの商品を運んで行く途中で、嵐に遭い、難破し、岸に投げ出されたそれらの品を、力ずくで奪ってきた。しかし、われわれは慈悲の心から、そして栄光と功徳のために、あえて危険な船旅に乗り出し、自らの命よりも富のほうが価値をもつと考えた者たちに対し、定められたもの以外のいかなるものをも取らないことにした。

この定められた税率は、すべての輸出品、輸入品に対し、30分の1である。すなわち、
1トウラの白檀に対し、1ガディヤーナと4分の1パナム。
1ガディヤーナの価値の樟脳、中国樟脳、真珠に対し、4分の3と8分の3パナム。
1ガディヤーナの価値の薔薇水、象牙、麝香、樟脳油、胡椒、亜鉛、リセヤ、鉛、絹糸、珊瑚、香水に対し1と4分の1と8分の1パナム。
1ガディヤーナの価値の胡椒に対し3分の4と8分の1パナム。
すべての絹に対し、1巻きごとに5と4分の1パナム。
アリカナッツ10万ごとに1ガディヤーナと3と4分の1パナム。

シャカ暦1166年、クローディンの年に、偉大なデーシユーヤコンダパッタナ、別名モートゥッパリにおいて、ガナパティデーヴァが栄光のためにこの詔勅の石柱を建立した。それはカリ時代(末法の世)のぬかるみのなかでよろめく永遠の法を護るために建てられた旗竿にたとえられる。

 南インドにおける東西海上交通は、かつて同地域で一大勢力を築いたチョーラ朝のもとで、11世紀ごろから進展をみせていた。それ以降の王朝は、中国やアラビヤなど外国からの船をなんとか自国の港に誘致して、交易の利を得ようとしていた。

 このカーカティーヤ朝の刻文は、商人に対するフェアーな扱いを詔勅のかたちで約束することによって、船をモートゥパッリに入港させようとする意図があったと考えられている。

レッディ朝による商人保護

 カーカティーヤ朝は14世紀初めにデリーのトゥグルク朝によって滅ぼされる。その後、しばらくモートゥパッリは地方領主レッディ朝の支配下におかれる。上述のヴィーラバドラスワーミン寺院には、レッディ朝時代の1358年(延文三年)のもので前殿の石柱にタミル語、タミル文字で刻まれた刻文もある。

これは崇敬されるアンナポーットゥ・レッディから、遠くはなれた島々(外国)の商人たち、沿岸の町々の商人たちに対して発せられた命を記す石刻である。

誰でもモートゥパッリに来て住もうとする者は、必要な便宜と、かつて所有していた土地に対する権利を与えられ、また望むところへ移住する権利を保障されるであろう。後継ぎのない外国人の死に際して、その財産が没収されることはない。われわれは金と銀に対する課税(アーヤム)を取りやめる。白檀に対する関税(シュンガム)はこれまでの課税額の3分の1が免じられる。輸入した商品を、自分の好む誰にでも売り、それに対して輸出のために必要な商品を受け取ることが許される。

われわれは王室庫のための布(プダヴァイ)を要求しない。その他の商品については、これまで通りの率で課税する。このようにわれわれは、あなた方がどんなかたちでも苦しまないことを保証する。これは亡命を求める人たちの間で一般的な慣習にしたがうものである。

南から来る船については、輸入品の1000分の3、布を積んでいく船については、100分の2パナム、北から来る船については、輸入品の(100分の)1、布を積んで行く船については(100分の)3、遠くの島々(外国)から来る船については、輸出品、輸入品の(100分の)3、真珠を運ぶ船については、(100分の)7半パナム*1

 カーカティーヤ朝と同様に、商人たちに対して安全とフェアーな取り扱いを保証することによって、外国貿易の利を確保しようとする政策を打ち出している。

東西貿易の拠点

 マルコ・ポーロ旅行記では、ムトフィリ(モートゥパッリ)で取引される商品としてダイヤモンドと麻布を挙げていた。カーカティーヤ朝とレッディ朝の両時代の刻文からは、このほかに、象、馬、金銀、白檀、樟脳、真珠、胡椒、絹など、いろいろと高価な品があったことを知ることができる。

 馬はペルシア湾から、絹は中国からもたらされる重要な商品で、モートゥパッリが東西貿易の拠点として栄えていたことがうかがえる。それらの品々は、モートゥパッリで陸揚げされ、カーカティーヤ朝の都ワランガルへと運ばれたとみられる。

 またレッディ朝時代の刻文には、外国から来る船のほかに「南から来る船」「北から来る船」、さらに「沿岸の町々の商人たち」という表現があり、インド沿岸部の港の間でも活発な商取引が行われていたことが分かる。取引された商品のうち、真珠は南方のスリランカとの間のマンナール湾の特産であり、これは南から来る船によって運ばれてきたものと推定される。

  なお、モートゥパッリからは13・14世紀の中国陶磁片が採取されており、繁栄時期が考古学的にも裏付けられている。その中には龍泉窯の青磁、徳花窯と福建系の白磁、青釉、それに広東系の褐釉壺などが確認されている。ほかに17・18世紀の景徳鎮または福建系の染付もみつかっている。

衰退

 レッディ朝の支配の後、モートゥパッリは16世紀にカーカティーヤ朝の故地に勢力を築いたゴールコンダ王国の支配下に入る。しかし17世紀以降は、北方のクリシュナー川デルタの港マスリパトナムが台頭し、モートゥパッリの繁栄は失われていく。

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 上述の17・18世紀の染付は、当時北方のグントゥールに駐屯したフランス軍への補給物資を積んだ船が入港した頃のものと推定されている。英領期の「地誌」によれば、この町にはポルトガル人の居住区もあったという。

参考文献

  • 辛島昇 「十三~十六世紀、コロマンデル海岸の港町―刻文史料と中国陶磁器片にみる」 (歴史学研究会編 『港町の世界史① 港町と海域世界』 青木書店 2005)

アジア図(J・B・ホーマン)1716年頃 出典:古地図コレクション(https://kochizu.gsi.go.jp/) ※ゴールコンダ(Golconda)周辺を切り取り加工しています

東郷実 『植民夜話』3版 大正12 (国立国会図書館デジタルコレクション)
マルコ・ポーロの肖像の挿絵

*1:ここで終わっている。