戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

マドラス Madras

 インド東岸のコロマンデル海岸中央部の港町。元は小さな漁村だったが、17世紀前半、イギリス東インド会社がセント・ジョージ要塞を建設し、コロマンデル海岸における中心拠点としたことを契機に都市として発展した。周辺地域が戦争の多発などで不安定な政治情勢にあったこともあり、要塞に守られ比較的安全だったマドラスは、職人や商人など多くの移住者を引き付けたといわれる。

イギリス東インド会社マドラス進出

 1639年(寛永十六年)、イギリス東インド会社のアマルガオン商館長フランシス・デイは、現地の領主(ナーヤカ)のダーマルラ・ヴェンカタッパから、土地の租借権と要塞建設の許可を受けた。当時、そこは僅かに数世帯の漁師らが住む漁村に過ぎなかったという。

 翌1640年(寛永十七年)、デイはイギリス東インド会社のマスリパトナム商館長アンドリュー・コーガンとともにマドラスに上陸し、それから10日足らずの間に、セント・ジョージ要塞の建設が開始された。最初の稜堡はその年のうちに完成し、1641年(寛永十八年)、要塞建設が続けられる中で、イギリス東インド会社のコロマンデル海岸における主商館は、マスリパトナムからマドラスに移された。

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 イギリス東インド会社内では、マドラス獲得について懐疑的な見方もあったが、デイはその将来性について確信があったという。それは、この地が三方を川と海に囲まれ、要塞の立地に適した地形であること、要塞建設の認可に加え、免税などの特権を現地の領主から得られたこと、そして周辺に各種の綿織物の生産地があり、それらが割安に入手できる可能性があることなど、多くの利点を持っているとの判断であったという。

人口の増加

 イギリス東インド会社は、綿織物の入手に際して、「チーフ・マーチャント」と呼ばれる独占的な仲介商人を通して必要な商品を確保する方策を採用した。最初期のチーフ・マーチャントは、プリカットなどでオランダ東インド会社と数十年にわたって協力関係にあった商人の家系に連なる人物であった。彼を含め、マドラスでの取引に参入した商人たちは、周辺地域から移り住んだ人々であった。

 イギリス東インド会社では、織物獲得のため、マドラスへの職人の移住も進めていた。商館開設から程なくして、デイはチーフ・マーチャントを通じて、織物職人をはじめとする周辺の職人・商人らがマドラスに居住するよう取り計らっている。さらに、1687年(貞享四年)からマドラスの総督となったエリフ・イェールは、このような職人集団の移住がより組織的に進よう努めた。

 1689年(元禄二年)の「セント・ジョージ要塞協議案件」によれば、イェールの説得により、上質布専門の織布カーストであるジャンラワル・カーストの50家族あまりが商館に来ることになったという。彼らに対しては、他の織布カーストとは別の地区を与え、仕事や祈祷の便宜を図るように、特別の許可状が与えられた。

 また居住区の住民を増やすため、イギリス東インド会社は近隣のサントメに住む「ポルトガル人」を誘致。免税特権を与えたり、住居の建設費用を提供したりしてマドラスへの移住を促す策を取った。

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都市マドラスの区画

 周辺各地からの人々の移住が進むにつれ、マドラスは要塞を中心とした町になっていった。町の拡大にともない、1644年(寛永二十一年)から48年(慶安元年)の間には、当時あった町全体を取り囲む塁壁が造られた。

 1653年(承応二年)にセント・ジョージ要塞が完成すると、続いて外城の建設が始まり、1661年(寛文元年)に完成。この外城の内側が後に「ホワイト・タウン」と呼ばれる部分であるが、17世紀を通じてここはクリスチャン・タウンと呼ばれた。他方、後に「ブラック・タウン」と呼ばれる外城の外側は、当初はジェントゥー・タウン、アウト・タウン、あるいはマラバール・タウンと呼ばれた。

 上記の外城の外側のエリアには、主要な交易品である綿布や絹布の紡織に従事する、織布・捺染・紡糸の職人集団、雑役、それに商品の取引を行う商人がカーストごとに居住した。その住民は主にヒンドゥーであったが、ムスリムの商人や漁民たちも少数ながら居住していた。

マドラス外城内の住人

 イギリス東インド会社は、上述のように現地人に織物調達を依存していたが、彼らには外城の内側での居住を認めようとしなかった。外城内のクリスチャン・タウンに住んでいたのは、イギリス東インド会社に勤務する人々や、ブリテン島をはじめヨーロッパにルーツをもつ私商人のほか、アルメニア人(アルメニア教会の信徒)や「ポルトガル人」であった。

 とくに「ポルトガル人」は数も多く、マドラスが町として成長していくうえで重要な役割を果たしたとされる。1673年(延宝元年)にマドラスを訪れたジョン・フライヤーは、外城の内部(クリスチャン・タウン)について、イングランド人300人、「ポルトガル人」数千人と見積もっている。人口の面では、当時のマドラスはその中心である外城内でさえ、イングランド人の町ではなかったことがうかがえる。

 また1642年(寛永十九年)、2人のフランス人神父がペグーに向かう途上でマドラスに立ち寄った際、商館長コーガンが「ポルトガル人」住民のために彼らを引き止め、マドラスに残留させている。町の中心部に提供された土地には、やがてカトリック教会が建てられており、これはマドラスプロテスタントの聖職者が派遣された1646年(正保三年)よりも早いことであった。

 1688年(元禄元年)時点でクリスチャン・タウンにあった個人所有の建物128軒の半数が「ポルトガル人」のものだったという。この年、マドラス市の行政機関が発足し、市長と市参事会員が置かれるようになったが、12人の市参事会員のうち、イギリス東インド会社の勤務者は3人で、フランス人商人が1人、ユダヤ人商人が3人で、「ポルトガル人」商人が2人に、現地商人が3人であった。

コロマンデル海岸の「ポルトガル人」

 上記の「ポルトガル人」の大半は、イギリス東インド会社マドラスに来る前からコロマンデル海岸に住んでいた人々やその子孫であった。16世紀初頭、ポルトガル王マヌエル1世は、それまでに獲得していた要塞や居留地をまとめ、「インディア領」と呼ばれる組織を成立させた*1

 このインディア領に勤務(通常3年)する者は、原則として任期満了後は帰国しなければならなかった。しかし帰国費用が実際には自弁だったために、多数の元兵士や元船員などが現地に住み着くようになっており、彼らはカザード(既婚者の意*2)と呼ばれた。その多くがゴア、マラッカ、マカオなどインディア領を形成する都市に居住したが、やがてインディア領の外にも彼らの活動は拡散していった。

 インド東岸のコロマンデル海岸では、中部のサントメと南部のナーガパッティナムに多くの「ポルトガル人」が住んでいた。彼らはポルトガル語カトリックの信仰を保持しつつも、タミル語を操り現地の商慣習にも通じていた。このため、仲介商人として、通訳として、あるいは兵士として、セント・ジョージ要塞とマドラスの町が求める様々な役割を担うことができた。

参考文献

  • 和田郁子 「要塞、市壁、「石の商館」ーインド・コロマンデル海岸の港町:1606ー1707ー」(『史林』95 2012)
  • 和田郁子 「港町マドラスにみる「境界」 : 17世紀のクリスチャン・タウンと「ポルトガル人」」(『境界研究』No.7 2017)
  • 重松伸司 『マドラス物語』 中央公論社 1993

重訂万国全図(山路諧孝)1855年 出典:古地図コレクション(https://kochizu.gsi.go.jp/) ※マドラス周辺を切り取り加工しています

*1:インディア領は「領」と呼ばれているが、実際にはインド洋およびシナ海沿岸の港町に点在した拠点を結んだものであった。その首都は、はじめコーチン、そして1530年以降はゴアにあった。

*2:勤務を終えたものも現地の女性と結婚すれば残留することが認められていた。