戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

桟留縞 さんとめ じま

 江戸期、ポルトガルやオランダの商船によって日本に輸入された縞織物の一つ。紺地に茶または赤の経(たて)縞糸を入れた縞物。その名は、インド東岸のコロマンデル地方の港市サントメ(サントメ・デ・メリアポル)に由来するとみられる。江戸初期には絹織物を指したが、中期以降は主として桟留縞の一種の木綿織物を指すものとなった。

唐桟の普及

 桟留縞は、日本国内で模倣されたものと区別するため、唐渡りの桟留、略して「唐桟留」、あるいは「唐桟」とも呼ばれた。江戸後期(天保嘉永年間)の風俗・事物を記録した『守貞漫稿』は、唐桟(桟留縞)について下記のように詳細に記している。

たうざん(唐桟)は皆必ず竪縞也。色種々縞も亦数品あり。御本手、胡麻殻、乱竪、算崩し、三筋竪は紺地に蘇方の三筋づつの竪縞也。江戸にて奥島とす。先年将軍家此島にて袴に製し、大奥にて着之し玉ふ故にオクシマと号(なづ)く。京坂の人は唐桟と云ず。奥島を以て唐桟の惣名とす。唐桟は来舶の木綿縞也。

今世士民冬袴に専用之又市民は晴略の羽折、衣服に是を流布とす。価一衣料金二両許より五、七両に至べし。古来を良とし新渡を下とす、新渡は今渡を云ふ也。又縞による也。流布の縞価高。又細縞を貴価とす。天保中来舶多き時は赤縞紺地の物、金一両許也。来舶多く特に色赤勝人好ざる風故也。又唐桟の古衣は富民も買て着用す也。

又近年日本にて唐桟模織甚多し。中にも武州川越にて専ら模製す。江戸人号(よび)てかわたうとす。川越唐桟の中略也。粗眞物を欺く物あり。

 上記の『守貞漫稿』の記述から、唐桟が外国からの輸入品であること、縦縞織りの木綿反物であったこと、京や大坂では「奥島」と呼ばれていたこと、将軍や武士層、富裕な町民にまで広まっていたこと、などが分かる。一方で、模造品が流通し、天保期に大量に輸入された紺地赤縞の織物の人気が出なかったこともあり、価格低下を起こしていたこともうかがえる。

 なお『守貞漫稿』では、唐桟の別称である「奥島」の由来を大奥で着用した縞(島)物である為としているが、遠方の島々から渡来した織物であることに由来するとの説もある。

オランダ船による奥縞(桟留縞)の輸入

 また「嶋」は、縞織物の俗称であった。江戸初期から中期にかけての有職故実を記した『貞丈雑記』は、「嶋おり物は外国の嶋より出すを云う」とし、「嶋」には筋模様が織られているため、筋のある織物も「嶋」と呼ぶようになったと説明している。

 実際、江戸期にはポルトガルやオランダの商船によって多くの縞織物が日本にもたらされている。種類も綿布、絹布、洋毛布など多様であり、それらの商品は外国の産地名か積出港の名前で呼ばれた。特に南アジア、東南アジア産の縞織物がよく知られており、「弁柄縞」*1「茶宇縞」*2「セイラス縞」*3「咬𠺕吧(カルパ)縞」*4「カピタン縞」*5、そして「桟留縞」「奥縞」などの名が挙げられる。

 桟留縞の別名である奥縞は、江戸初期の寛永年間には日本にもたらされている。寛永十五年(1638)四月、江戸に参府したオランダの平戸商館長ニコラス・クーケバッケルが、将軍徳川家光に対して、ペルシア馬や各種の羅紗、サージ(毛織物)、綸子(高級絹織物)、ガラス絵、カポ・ヴェルデの山うずらなどとともに、「奥嶋(縞)」20反を献上したことが、オランダ商館の日記にみえる*6。この時、幕閣である「大炊殿」「讃岐殿」「堀田加賀殿」「伊豆殿」に対しても、羅紗やサージなどとともに奥嶋が贈られている。

 その後も奥嶋の贈与は頻繁に記録にみえる。寛永十九年(1642)六月、平戸領主の一族2名に対して、それぞれ奥嶋1反ずつ、平戸奉行2名に対して3反ずつ、平戸藩主に対して20反を贈っている。以後も幕閣や長崎代官らへの奥嶋の贈与が続いており、その数は他の献上品の数量に比べて多い。江戸の将軍や幕閣、平戸、長崎の有力者らに奥嶋(桟留縞)が好まれていたことがうかがえる。

 なお『平戸オランダ商館の日記』によれば、ポルトガル船は寛永十四年(1637)に「絹奥嶋」5185反、寛永十五年(1638)に「奥嶋」4787反を舶載していた。オランダの参入以前は、ポルトガル船が奥縞(桟留縞)の日本への輸入を担っていたことが分かる。

日本人のサントメ認識

 18世紀までには、桟留縞の生産地であるインドの情報が日本でも知られるようになる。正徳二年(1712)成立の『和漢三才図会』巻14「外夷人物」には、榜葛刺(べんがら)、莫臥爾(もうる)、聖多黙(さんとめ)、印第亜(いんでや)、麻離抜(まりは)、故臨(くりん)、注輦(ちゅうれん)などインド諸地域の地名を挙げられ、風俗や産物等が記されている。

 この中で聖多黙(さんとめ)は、桟留縞の名の由来となったインド東岸コロマンデル地方の港市サントメに比定される。同書では、「未だその国の人が日本に来たことはない」としながらも、「その地の産物はシャムや中華の人が往って交易し日本にも来る」とある。また産物として鮫、木綿縞、織物、鹿革を挙げており、縞織物の産地との認識もあったことが分かる。

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 イタリア人宣教師シドッチを尋問した新井白石が1715年(正徳五年)頃に著した『西洋紀聞』には、『和漢三才図会』以上にインドの情報が多く詳細に記されている。

ゴアは、其西海の地に在りて、番舶輻湊の所なり(中略)マラバル、チャウル、サントメイ、皆ここに属する所の地名にて、其俗モゴルに似たりといふ。マラバル、またはマラバアルともいふ。ゴアの南にあり。チャウル、サントメイ等の地、各色布帛を出す。即今、布帛の類、其の地名に係れるものあり。

 サントメがインド西岸のチャウルと並ぶ綿布類の輸出地であり、日本における商品名がその地名に由来するものであるとの知見も得ていたことが分かる。

参考文献

浮世絵板画傑作集 第1集 階上の男女 鈴木春信
国立国会図書館デジタルコレクション

斎藤隆三 『江戸時代前半期の世相と衣裳風俗』
国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:インド・ベンガル地方産の縞織物。経は絹糸、緯は綿糸を用いる。オランダ船によってもたらされた。

*2:インド西海岸チャウル地方産の軽く薄い縞の絹織物。ポルトガル船によってもたらされた。

*3:セイロン島の絹縞。

*4:インドネシアのカルパ(ジャカルタ、バダヴィア)の産品といわれる。ただしインドネシア原産の縞物か、オランダ船によってインドネシアに運ばれたインド産の織物かははっきりとしない。

*5:オランダ商館長の名称「カピタン」に因んだ縞物。

*6:徳川実紀』にも寛永十五年(1638)四月五日にオランダ人が酒井讃岐守忠勝を通じて、算留縞20巻、綸子10巻、ちょろけん5巻、天鵞絨2巻、各色羅紗7臺などを献じたことがみえる。