戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

著羅絹 ちょろけん

 16世紀末ごろから日本に輸入された絹織物の一種。鎖服、知与呂介牟*1、長羅絹とも。厚手の生地で木目文様が特徴とされる。

徳川家康の遺品

 元和二年(1616)の徳川家康の遺品目録『駿府御分物帳』には多くの染織品が挙げられているが、その中の「尾州分」に「ちょろけん 三端」、「水戸分」に「ちょろけん 二端」の記載がある。

 このことから、著羅絹が少なくとも16世紀末から17世紀初頭には、日本にもたらされていたことが分かる。また、その輸入数量は少なかったこともうかがえる。

オランダ人による輸入

 著羅絹は、オランダ人による幕府への貢物の中にもみえる。『徳川実紀』によれば、寛永十五年(1638)四月、オランダ人が酒井忠勝を通じて、算留縞(サントメ縞)20巻、綸子10巻、天鵞絨2巻、各色羅紗7臺とともに「ちょろけん 五巻」を献じている。

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 慶安三年(1650)三月にも、猩々緋、彩色羅紗、白羅紗、金色はるせ、色ふらた、白糸、緋綸子、更紗などとともに「毛ちょろけん」を献上。以後、寛文四年(1664)まで頻繁に「ちょろけん」「毛ちょろけん」の貢納がみえる。

 しかし、その後は元文五年(1740)に「ちょろけん一種」の記事があるのみで、幕末までその名はみえなくなる。

 また宝永六年(1709)から正徳三年(1713)までの長崎出島での輸入状況を示す『唐蛮貨物帳』にも、「ちょろけん」「色ちょろけん」「黒ちょろけん」が記されている。ただし、その名が見えるのは僅か5件であり、他の輸入織物と比べて積載している船も少なく、積載量も非常に少なかった。

著羅絹の産地

 宝永五年(1708)に訂正増補された『華夷通商考』(西川如見著)には、巻之二「廣東省」の土産の項に、「天鵞絨(ビロウド)」「閃緞(ドンス)」「縐紗(チリメン)」などとともに「鎖服(チョロケン)」が挙げられている。

 一方、巻之四「阿蘭陀」の土産の項にも、「猩々緋」「ラシャ」「ヘルヘトワン」などとともに「チョロケン」の名が見える。なお同書では、阿蘭陀土産にはオランダ船が日本来航までに寄航した先の国々で積んだ土産も含まれている、と説明されている。上述のオランダ人によって、著羅絹がもたらされていた状況と符合する。

 正徳二年(1712)刊行の『和漢三才図会』でも、「鎖服(チヨロケン)、阿蘭陀及廣東ヨリ出ツ」とされる。当時の日本における著羅絹の産地についての認識は、中国の広東*2またはオランダ船の航路のどこか*3、というものだったことがうかがえる。

木目文様の絹織物

 上述の『和漢三才図会』では、「鎖服(チヨロケン)」は絹布類「加伊岐」の項に含まれ、「加伊岐ニ似テ橒文有」とある。「橒文」とは「もくめ文・木目のあや」の意味であり、さらに同項には「鎖服」と添え書きした木目文様のある裂の巻物の図が描かれている。

 また「加伊岐」については、「其絲上品ナリ、黄有、赤有、茶色有て、旧渡リ者ハ地厚ク、後渡リ者ハ稍薄シ 本朝ニ未ダ之ヲ織ラズ」とする。著羅絹が加伊岐に類するものであれば、その生地は厚手であったのだう。

 以上のことから、著羅絹は木目文様のある厚手の絹織物と認識されていたことが分かる。現在、徳川美術館に所蔵されている著羅絹のうち「銀モクチョロケン」と「金モクチョロケン」の2例には厚手の絹織物で木目文様という共通性が見られるという。 

著羅絹の用途

 徳川博物館蔵品に「煤竹チョロケン下着」がある。袷(あわせ)で、表裏とも木目風織のチョロケンを使っているとされる。元禄八年(1695)刊行の裁縫書『当流𥿻布裁様』には、布地の種類として「ちょろけん」を挙げ「着物用」としている。

 天和ニ年(1682)初版の井原西鶴好色一代男』では、九州の羽振りの良い商人らしき「唐津の庄介様」が、遊女からもらった珍品の礼として「ちょろけん一巻」を贈っている。当時、著羅絹が珍品の礼に値する価値をもった贈り物であったことがうかがえる。

参考文献

  • 奥村萬亀子 「渡来裂「ちょろけん」と丹波の織物」(『京都府立大学学術報告(理学・生活科学)』第47・48合併号 1996)

和漢三才図会 巻第27 絹布類 国立国会図書館デジタルコレクション

*1:正徳二年(1712)刊行の『和漢三才図会』には「正字未詳 鎖服 知与呂介牟」とある。

*2:宝暦五年(1755)刊の滑稽本『花菖蒲待乳問答』では、呉服商の富田屋長右衛門の店の様子の描写で、「蜀江の錦、廣東の金緞、福建の鎖服、浙江の五絲」という箇所があり、鎖服(著羅絹)を福建のものとしている。

*3:インド西岸のチャウル産とする説もあるとのこと。