陶氏家臣。陶興房、後に隆房に仕えた。官途名は惣右衛門尉。奉行人として陶氏所領および所領から収納される銭米を管理にあたった。陶興房の側近として興房への取次を担当することもあった。
陶氏「政所」の奉行人
陶氏には「政所」と呼ばれる機関があり、各所領の管理者や、陶氏から銭米を預けられた寺院等の出納機関に対して指示・監査を行い、陶氏領主財政の中心を担ったとされる。肥留景忠は、この「政所」の構成員として活動している。
景忠は陶氏財政で大きな権限を持ち、陶氏の銭米の一部を自由に差配していた。それは、陶氏(またはその家臣)が寺院から借米した際、「景忠御米」(景忠が管理している陶氏の米)を使ってでも必ず返済する旨を約束した文書が残されていることから分かる(「松江八幡宮蔵文書」217号)。
また筑前国飯塚の陶氏所領から米を受け取った別当宗吉という人物は、算用状に「景忠御存知」と記しており(「松江八幡宮蔵文書」75号)、陶氏所領の銭米管理に関わる景忠の存在の大きさがうかがえる。
寺院に預けた銭米の監査
陶氏は所領から収納される銭米を、複数の寺院に預けて管理させていた。そのような寺院の一つに富田保の花厳寺(山口県周南市政所)があり、景忠と同じ「政所」構成員であったとみられる奈良橋和泉入道玄寿が、同寺に対して料足7貫文を預かるよう指示した文書も残されている(「松江八幡宮蔵文書」88号)。
景忠は「政所」の陶氏奉行人として、これら銭米を預けられた寺院に対する監査も行っていた。
天文九年(1540)九月、花厳寺の僧・梵祐が、預かっていた豆について、渡した相手と日付・数量、および現在の残数を景忠に報告している(「松江八幡宮蔵文書」70号)。この報告に際しては、受け取った相手が花厳寺に提出した請取状(受領書)や寺院からの支出に対する陶氏奉行人の指示書も、併せて監査を担当する陶氏奉行人に提出されていたとみられ、景忠らはこれらを突き合わせて監査を行っていたと考えられている。
なお年月日未詳の毛利若狭守状案断簡(「松江八幡宮蔵文書」99号)には、「御預り米年々御散用目録」を披露するに際し、肥留惣右衛門尉(景忠)が蘆屋(筑前国)に下向していたので、その帰還を待つ予定だったが遅くなりそうだったので披露した、とある。このことから、寺院などが預かっている米について決算報告をする際、肥留景忠の役割が重要だったことがうかがえる。
また蘆屋に下向している理由は、筑前国の遠賀川流域にあった陶氏所領の年貢について、蘆屋津からの海上輸送の指揮をとる為と考えられている。
肥留氏の出自
一方で「政所」の構成員であった肥留景忠や奈良橋玄寿は、陶氏の公的な奉行人奉書(愁訴への採決などを通達する奉行人奉書など)への署名をしている例が見られない。両者とも陶氏譜代の重臣の家出身ではなく、特に肥留氏は景忠以外には天文七年(1538)九月に対馬の宗将盛と陶興房の間を取り次いだ肥留備前守という人物が知られるのみで(「大永享禄之此御状并書状之跡付」261号)、出自がよく分かっていない。
これらのことから、肥留景忠や奈良橋玄寿は興房にその才覚を買われて取り立てられた人物と推定されている。領主財政に関わる私的な官僚である「政所」の構成員は、比較的自由に登用することができた為ともされる。
陶興房の側近
肥留景忠には、陶興房の側近的な活動も見られる。
大永四年(1524)三月十八日、陶興房は竹原小早川氏被官・能美兵庫助と大内氏被官・能美仲次の争論について、脇新左衛門尉を使者として小早川安芸守弘平に意向を伝達。同日付で肥留景忠は小早川弘平の重臣・乃美兵部少輔(賢勝?)に書状を送付し、能美仲次サイドの主張について補足の説明を行っている。景忠が竹原小早川氏と陶興房の仲介を行っていたことがうかがえる。
興房隠居後、新当主である隆房に興房の意向を伝達することもあった。天文六年(1537)四月、当時既に家督を譲って隠居していた陶興房(道麒)は、新当主である隆房に対し、周防国都濃郡の地蔵院の処置に関して方針を示しているが、この時、肥留惣右衛門尉景忠が使者となっている(「花岡八幡宮文書」4号)。
また前述のように、天文七年九月に対馬の宗将盛と陶興房の間を肥留備前守が取り次いだ事例もあり、肥留氏が興房側近として要人との取次を担当していたことがうかがえる。