戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

イシュ・ツァクブ・アハウ Ix Tz'aka'ab Ajaw

 マヤ低地南部西端で古典期に栄えた都市国家パレンケの王キニチ・ハナーブ・パカルの妃。パレンケの「13号神殿」の石棺からみつかった真紅の遺体(レイナ・ロハ)が、彼女であるとの説が有力となっている。

王妃の生涯

 一連の碑文から、彼女はパレンケ出身ではなく、ウシュ・テ・クフ(「三柱の神」の意)という地の出身であることがわかっている*1。生年は不明だが、後述の骨学的死亡時年齢から逆算して、612年(推古天皇二十年)頃と推定されている。

 626年(推古天皇三十四年)、パレンケの王キニチ・ハナーブ・パカルと結婚。635年(舒明天皇七年)、20代前半ごろに長男キニチ・カン・バフラムが生まれた。

 640年(舒明天皇十二年)、夫パカルの母であるイシュ・サク・クックが死去。パカルは母の後見を脱し、王としての活動を本格化させたと考えられており、パレンケはこのパカル王の時代に最盛期をむかえたとされる。

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 夫パカルとの関係は良好であったらしい。その後も644年(皇極天皇三年)に次男キニチ・カン・ホイ・チタムが、648年(大化四年)に三男(諸説あり)のティウォル・チャン・マトが生まれている。

 碑文によれば、イシュ・ツァクブ・アハウは672年(天武天皇元年)11月16日に死去。その亡骸は、パレンケにおいて「碑文の神殿」に隣接する「13号神殿」の下部建造物に埋葬された。

 なお夫でパレンケ王のキニチ・ハナーブ・パカルは683年(天武天皇十二年)に80歳で死去。翌年、イシュ・ツァクブ・アハウの長男のキニチ・カン・バフラムが即位した。キニチ・カン・バフラムが702年(大宝二年)に死去すると、イシュ・ツァクブ・アハウの次男キニチ・カン・ホイ・チタムが新たなパレンケ王となった。

レイナ・ロハ(赤の女王)の発見と分析

 1994年初め、パレンケの「13号神殿」の発掘調査が行われ、東西に3つの部屋が連なった下部構造につながる持ち送りアーチによる通路が見つかった。その中央の部屋は、一枚岩の石棺に納められた遺体と副葬品を安置するために使われていた。

 最初の分析で、この遺体は真紅の辰砂(水銀朱)に覆われ、多くの装飾品を身に着けた女性であることが判明。王墓の特徴があり、また遺体が辰砂で覆われていたことから、「レイナ・ロハ(赤の女王)」と呼ばれるようになった。

 レイナ・ロハは、骨盤のすり減り具合から「老年」の個体であることが推定されていた。その後、骨代謝の状況の分析等がすすめられ、その結果、「50~60歳」程度で死亡した人物であるとする様々な証拠が示された。

 一方で、頭蓋骨では法医人類学分野で培われた知見をもとに生前の顔の復元が試みられたが、ここでイシュ・ツァクブ・アハウとの類似性が指摘される*2

 その後は理化学的な研究も進められた。ストロンチウム安定同位体の研究では、レイナ・ロハもイシュ・ツァクブ・アハウと同じく異邦の出自であることが明らかになった。

 またDNAの研究では、レイナ・ロハがパレンケ王キニチ・ハナーブ・パカルと血縁関係にないことが証明された。これにより、もう一つの有力な仮説であった「レイナ・ロハ=王母イシュ・サク・クック」という可能性が否定された。

 これらのことにより、13号神殿で発見された真紅の古人骨であるレイナ・ロハは、イシュ・ツァクブ・アハウであると特定された。

骨から分かる晩年の姿

 前述のとおり、レイナ・ロハ(=イシュ・ツァクブ・アハウ)の死亡時の年齢は「50~60歳」程度であったとみられている。背中の椎骨には関節炎の症状が認められているため、死亡時には加齢によって「腰が曲がった老女」のように小さくなっていた可能性が高いという。

 しかし「若い頃は比較的背の高い女性」であったらしい。長骨の計測から数学的に復元された生前の最大身長は154センチメートルとされており、古代マヤ女性の平均身長である150センチメートルを上回っている。

 また頭蓋には、強い傾斜型と呼ばれる人工的、文化的な頭蓋変形がほどこされていた。誕生後間もない時期から2~3歳程度まで、子どもの頭に板をきつく結びつけるなどをして、頭蓋に不可逆的な変形を加える、ということが古代マヤでは極めて一般的な習慣として行われていた。パレンケ遺跡の各所からも、レイナ・ロハと同じ強い傾斜型の頭蓋変形を伴う王侯貴族たちの姿が美しく描かれた石板や石碑がみつかっている。

 負傷や過重負荷などによって発生する骨膜炎、および骨折のあとは認められなかった。このことから、少なくとも晩年において、足を負傷するような活動、骨に過剰な負荷のかかるような活動に直接かかわることなど、全くなかったとみられている。

 一方で骨粗しょう症が進行しており、レイナ・ロハの頭蓋は頭頂部に大きな穴が開いていた。これは乳幼児期の強い頭蓋変形によって、そもそも薄くなっていた頭蓋骨が骨粗しょう症でさらに薄くなり、ついには穴が開いてしまったものと考えられている*3

 このような脆弱な頭蓋骨も含め、骨粗しょう症で極めて骨折しやすい状態にあったはずだが、レイナ・ロハは骨格系で一切の骨折が認められていない。晩年の彼女は、自らの足で歩くということすら少なく、日常的に輿(こし)のようなものに乗って移動していた可能性も指摘されている。

レイナ・ロハの副葬品

 レイナ・ロハ(=イシュ・ツァクブ・アハウ)は、一枚岩の石棺に埋葬され、同じ材質の大きな石板で覆われていた。石棺が安置された埋葬室内では、王妃イシュ・ツァクブ・アハウと共に冥界へ旅するため生贄として捧げられたと思しき二人の人骨が見つかっている。

 遺体に伴った副葬品には、スポンディルス貝(ウミギクガイ)の貝殻があり、貝殻の中からはレイナ・ロハをかたどった小さな石灰岩の小像が見つかった。この種の貝は水中を着想させて、原初の世界を想起させるものであり、小像は、肉体が滅びた後もレイナ・ロハの姿をとどめおくためのものであったと考えられている。

 レイナ・ロハは頭飾りを着けて埋葬された。この髪型は貴族がよく用いるものであったとされる。この頭飾りは、ヒスイ輝石岩を主成分とする103個の小片と11個の貝殻、37個の石灰岩からなり、精巧な作りで「大きな鼻の神」(おそらくチャフク)と呼ばれた神を表しているという。

 レイナ・ロハの装身具のなかでは、マスクがもっとも重要なものとされる。このマスクは、116個の部品からなり、そのうち110個が孔雀石製であった。瞳には黒曜石、白目には白色のヒスイ輝石岩がほどこされている。

参考文献

  • アルノルド・ゴンザレス・クルス(翻訳 白鳥祐子) 「レイナ・ロハ」(『特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン 展覧会図録』 2023)
  • 鈴木真太郎 「赤の女王―人骨の研究からみたその生涯」(『特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン 展覧会図録』 2023)

レイナ・ロハ(赤の女王)のマスク、頭飾り、胸飾り
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

パカル王とみられる男性頭像(複製)。本作の原品は「碑文の神殿」のパカル王墓内で見つかった。
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

マヤの儀式で用いられた香炉台。パレンケ特有の香炉台には、神や人の顔が描かれた。この香炉台の顔はキニチ・カン・バフラムのものとされる
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

*1:イシュ・ツァクブ・アハウとパカルの長男キニチ・カン・バフラムは、パカルの跡を継いでパレンケの王となった。692年の石板の碑文にはキニチ・カン・バフラムについて、「80歳代まで生きたキニチ・ハナーブ・パカル王を父とし、イシュ・ツァクブ・アハウ王妃を母とし、ウシュ・テ・クフの人であるヤシュ・イツァム・アートを(母方の)祖父(あるいは先祖)とする」とある。

*2:復元された顔について、パレンケ王朝史上に知られる3人の有力女性の図像表現と、特に噛み合わせの状況、鼻根の形状、オトガイ(あご先)の形状などを中心に、比較検討された。

*3:なお、この頭の穴によってレイナ・ロハの脳機能に何らかの障害が出ていた可能性も低いと考えられている。