メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの古典期後期・終末期(700〜1000年)におけるマヤ低地北部、プウク地方の大都市。
マヤ低地北部の大都市
チチェン・イツァの都市の範囲は、少なくとも30平方キロメートルにおよぶ。推定人口は、3万5000人以上。メソアメリカ最多の90を超えるサクベ(地面より高く作られ、石と漆喰、石灰等で舗装された道路)が通る。遺跡に残る球技場も、マヤ地域で最多の13を数える。「大球技場」は全長168メートル、幅70メートルを誇り、メソアメリカ最大の大きさといわれる。
ピラミッドと天文学
チチェン・イツァにある「エル・カスティーヨ」ピラミッド(別名「ククルカン(羽毛の生えた蛇)・ピラミッド」)は、底辺60メートル、高さ30メートルの大神殿ピラミッドである。基壇の四面にそれぞれ91段の階段を有し、基壇上の神殿の階段1段とあわせて全部で365段となる。太陽暦に相当する365日暦との関連が指摘されている。
また春分と秋分の午後、その北側の階段に蛇の姿を映し出すことでも有名である。壮大な仕掛けによって、王、貴族と庶民が強力な宗教的体験を共有したと考えられている。
「カラコル(スペイン語で巻貝の意味)」と呼ばれる天文観測所も残されている。内部に螺旋状の階段を有し、高さは12.5メートル。その観測窓からは、春分と秋分の日没、月や金星が観察された。また、その基壇の北東隅は夏至の日の出、南西隅は当時の日の出の方角を指した。上部基壇にはマヤ文字が刻まれた石碑があり、906年にあたる日付が刻まれている。
都市の始まりと最盛期
近年の発掘調査や年代測定によると、チチェン・イツァには先古典期後期(前400〜250年)に居住が開始された。古典期後期の700年頃から都市化が進み、最盛期は900〜1000年であったとみられている。10世紀、マヤ低地北部プウク地方の諸都市は衰退した。その一方でチチェン・イツァは、地域で最大の広域国家の中心都市として栄えた。
遠距離地域との交流
チチェン・イツァには、遠距離交易によって多様な地域の物資が搬入された。アメリカ南西部産のトルコ石、メキシコ中央高地のパチューカ産の緑色黒曜石製石器やサラゴサ産の黒曜石製石器、メキシコ西部のウカレオ産の黒曜石製石器、グアテマラ高地のイシュテペケ産の黒曜石製石器、グアテマラ太平洋岸低地産のプランベート土器、ウスマシンタ川流域産の精胎土オレンジ色土器、グアテマラ高地産の翡翠製品、中央アメリカ南部産の金や金と銅の合金などが、みつかっている。ユカタン半島北の沖合にあるセリートス島は、チチェン・イツァの交易港であったという。
遠距離交易の影響は、文化面にもみられる。「戦士の神殿」にあるチャックモール(仰向けになって腹部に皿を乗せた人物の像)の石彫や、頭蓋骨の石彫で装飾された基壇「ツォンパントリ」など、古典期終末期(800〜1000年)のメソアメリカで広く分布する「国際的な」石彫様式が採用されている。また「エル・カスティーヨ」ピラミッドや、他の六つの建造物には、羽毛の生えた蛇の石彫があるが、これも「国際的な」石彫様式の一つといわれる。
衰退とその後
1000年頃からチチェン・イツァは衰退し、後古典期前期の1100年頃まで居住が継続したと推定されている。しかし、宗教儀礼に用いられた直径60メートル、深さ36メートルの「聖なるセノーテ」は、後古典期後期(1200〜16世紀)になってもマヤ低地北部の重要な巡礼地として、多くのマヤ人に訪問されつづけた。
参考文献
- 青山和夫 『シリーズ:諸文明の起源11 古代マヤ 石器の都市文明』 京都大学学術出版会 2005