後古典期後期(1200年~16世紀)におけるカクチケル・マヤ人の要塞都市。現在のグアテマラ共和国チマルテナンゴ県北東端のミシュコ・ビエホ遺跡がその跡地。カクチケル・マヤ語の遺跡名は「チュワ・ニマ・アバフ」であり、「大きな石の前」を意味する。
ミシュコ・ビエホ遺跡
ミシュコ・ビエホ遺跡は海抜約980メートル、モタグア川上流域の90メートルに達する崖の上という天然の要害に立地する。付近にはサン・マルティン・ヒロテペケの黒曜石産地が広がる。
ミシュコ・ビエホへの入口はただ一つ、遺跡の南西端の広場に続く吊り橋のみであった。遺跡内部には4つの主要な広場を含む計12の広場が設けられており、そのうち「広場A」と「広場B」には球技場や細長い公共建造物があった。また崖の傾斜を整地して石垣が建設されており、「広場B」の石垣の高さは15メートルに達した。
「広場A」の神殿ピラミッドが高さ6.9メートルと最も高く、正面に2つの階段、基壇の上に2つの神殿が設けられた。「広場B」には、双子ピラミッドが隣接して建設された。
住居等の跡から、都市の人口は1500~2000人と推定されている。建造物のいくつかは、漆喰でコーティングされていた可能性があるという。
イシムチェとスペイン人との戦い
マヤの後古典期後期のカクチケル・マヤ人の2大中心地が、西のイシムチェと東のミシュコ・ビエホであり、それぞれ別の王国を形成して戦争が交わされた。ミシェコ・ビエホの人々はチャホマ人と呼ばれ、1490年頃からイシムチェのカクチケル・マヤ人に政治的に従属するようになった。
1523年(大永三年)12月6日、ペドロ・デ・アルバラードに率いられたスペイン人とメキシコ人の大軍勢*1がメキシコからグアテマラに向けて進発。1524年(大永四年)3月、グアテマラのマヤ高地に侵攻したアルバラード軍はキチェ王国の軍を破り、その主都クマルカフを破壊した。
その後にアルバラード軍はイシムチェのカクチケル・マヤ人と同盟して周辺の征服に乗り出す。1525年(大永五年)、アルバラードの侵攻を受けたミシュコ・ビエホは、激しい防衛戦を展開して約1カ月間の籠城に耐えたものの、ついに降伏。住民は別の場所に移され、都市は焼き払われたという。