後古典期後期(1200年~16世紀)のカクチケル・マヤ人の主要都市。現在のグアテマラ共和国チマルテナンゴ県にあるイシムチェ遺跡がその跡地。メキシコ中央部のナワトル語で「クアウテマラン」の名称で呼ばれた。この「クアウテマラン」がスペイン語の地名グアテマラの語源であるという。
カクチケル・マヤ人の独立
1425年(応永三十二年)頃、カクチケル・マヤ人は、キチェ・マヤ人のキカブ王(1425~1475年頃統治)から土地を与えられ、キチェの主都クマルカフの南東16キロメートルの台地に後古典期後期における最初の主都チ・アワルを築いた。
民族史料によれば、1470年(文明二年)頃にクマルカフのキチェ・マヤ人の支配から独立。チ・アワルを離れ、南東22キロメートルに第2の主都となるイシムチェを建設した。クマルカフのキチェ・マヤ人は、1480年(文明十二年)と1511年(永正八年)にイシムチェを攻撃したが、失敗に終わる。
一方でイシムチェのカクチケル・マヤ人の支配者は、1490年(延徳二年)頃に北東38キロメートルにあるミシュコ・ビエホのカクチケル・マヤ人を政治的に従属させたという。
遺跡からみた要塞都市
イシムチェの遺跡は、海抜2,277メートルの高地にあり、南、北、東の三方が深さ89メートルに至る渓谷に囲まれた崖上の天然の要害に立地している。推定人口は5,000人。
唯一の出入口は、石塁と深さ7メートルの壕で防御され、吊り橋がかかっていた。中心部には類似した二大建築群があり、それぞれ二対の神殿ピラミッドが隣り合わせになった広場、2つの球技場、ポポル・ナフ(会議所)、王宮や4つの公共広場があった。
最大の神殿ピラミッド(高さ9メートル)のある広場の北側の長い基壇には、直径1.2メートルの楕円形の墓に支配層の2体の遺体が座葬されていた。1体は金製数珠、青銅製耳飾り、貝製数珠、穴が開けられた翡翠製品と共に、黒曜石製両面調整尖頭器1点の副葬が確認されており、もう1体には土器や貝と共に、2点の黒曜石製両面調整尖頭器が副葬されている。この2人は支配層戦士であった可能性があるという。
また上記の神殿ピラミッドのある広場の西側の神殿南隅に隣接する小さな基壇からは、打首にされた計48の頭蓋骨が出土*1。大部分は成人男性であったが、女性や少年も含まれていた。この建造物には、ナワトル語でツォンパントリと呼ばれる生贄の打首を陳列する木棚があったと解釈されている。
スペイン人の征服戦争
1523年(大永三年)12月6日、ペドロ・デ・アルバラードに率いられたスペイン人とメキシコ人の大軍勢*2がメキシコからグアテマラに向けて進発。イシムチェのカクチケル・マヤ人は、アルバラード軍に加わった。
1524年(大永四年)3月、グアテマラのマヤ高地に侵攻したアルバラード軍はキチェ王国の軍を破り、その主都クマルカフを破壊した。
その後、アルバラードとカクチケル・マヤ人との間で同盟が成り、1524年4月14日にアルバラードはイシムチェに入城する。イシムチェを拠点としたアルバラード軍は、アティトラン湖畔にあるツトゥヒル・マヤ人の主都チヤを破壊。ついでエル・サルバドル方面のクスカトラン王国にも侵攻した*3。
翌1525年(大永五年)になると、スペイン人はグアテマラ高地諸王国の征服を再開し、マム・マヤ人の主都サクレウ、イシムチェ東方のカクチケル・マヤ人の都市ミシュコ・ビエホをはじめとして次々と各地を攻撃していった。しかし、アルバラードらスペイン人とカクチケル・マヤ人との対立もしだいに激化した。スペイン人があまりにも多くの貢納、特に黄金を求めたためともいわれる。
1528年(享禄元年)、イシムチェはスペイン人によって焼き払われる。カクチケル・マヤ人はイシムチェの再建を試み、スペイン人に抗戦したが、1540年(天文九年)にイシムチェは破壊され、当時のカヒ・イモシュ王は絞首刑に処された。