後古典期後期(1200年~16世紀)のマム・マヤ人の主都。グアテマラ共和国ウェウェテナンゴ県に位置するサクレウ遺跡がその跡地とされる。遺跡名はマム・マヤ語で「白い土地」を意味する。
サクレウ遺跡
サクレウ遺跡は、海抜約1,880メートルの高地にあり、グリハルバ川の支流セレグア川の高さ20メートルほどの河岸段丘という天然の要害に立地する。都市の三方は川に囲まれており、北側は石塁で防御されていた。
その歴史は古く、古典期前期(250年~600年)には居住が開始されていたとみられる。後古典期後期には8つの公共広場があり、その周りに40基を超す建造物が配置されていた。
高さ12メートルの神殿ピラミッドは、古典期前期には建設されていたとみられ、その後も後古典期まで再建が繰り返されたと考えられている。このほか高さ4.2m×底辺42.5m×21mのI字型の球技場がある。
また、発掘調査によって洗練された石室墓のなかから複数の人骨と豊富な副葬品が出土。116の墓から、マヤ地域で最多の人骨資料のひとつである249体の人骨が収集されている。
スペイン人との戦い
民族史料によれば、サクレウはキチェ・マヤ王国(主都クマルカフ)のキカブ王(1425~1475年頃統治)の攻撃を受け、その従属下におかれたという。なおキチェ・マヤ人によるマム・マヤ人の征服は、もっと以前の時代であったとする説もある。
1523年(大永三年)12月6日、ペドロ・デ・アルバラードに率いられたスペイン人とメキシコ人の大軍勢*1がメキシコからグアテマラに向けて進発。1524年(大永四年)3月、グアテマラのマヤ高地に侵攻したアルバラード軍はキチェ王国の軍を破り、その主都クマルカフを破壊した。
その後にアルバラード軍はカクチケル・マヤ人と同盟し、その主都イシムチェを拠点として周辺の征服に乗り出す。1525年(大永五年)、ゴンサロ・デ・アルバラード(ペドロ・デ・アルバラードの従兄弟)を指揮官とする軍勢がサクレウに侵攻。
ゴンサロ・デ・アルバラードによる『サクレウ征服記』によると、サクレウの守備隊はマム・マヤ人の王カイビル・バラムに率いられて長い期間の籠城戦に耐えたが、同年10月についに降伏した。ただしマム・マヤ人の抗戦は、サクレウ陥落後もさらに5年続いたという。