戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

レモン(中東)  lemon

 レモンがインドから中東にもち込まれ、栽培が開始されたのは9世紀・10世紀のことであり、13世紀になると、中東全域でよく知られた果物として文献資料に記述されるようになる。特にエジプトでは10世紀以降に栽培が普及し、その医学的効能についても重視されていた。

レモン栽培の伝播

 レモンの原産地について、10世紀のホラズム朝出身の医学者ビールーニーは、インド北部であると述べ、以下のように効能を記載した。

スダールパキスタン南西部のクエッタの南に位置する町)から運ばれた。オレンジと似ているが、重さと光沢をもつ。外皮はなめらかである。果肉はオレンジと類似するが、苦味が強い。胃の収縮運動を起こし、強心作用がある。

 このビールーニーの記述は、12世紀の地理学者イドリースィーの編纂した本草書にも引用されている。

 レモン栽培はオレンジと同様、9世紀末には中東地域で開始されていた。その伝播ルートについて、10世紀の歴史家マスウーディーは『黄金の牧場』で以下のように記録している。

オレンジと"丸いシトロン"の木は、(ヒジュラ歴)300年(912年or913年)、オマーンで栽培され、バスラに運ばれ、その後イラク・シリア地域・パレスチナ・エジプトに伝えられた。

 "丸いシトロン"はレモンのことであり、10世紀前半には、レモンやオレンジの苗が中東各地に移送されていたことがうかがえる。実際に同世紀の地理学者ムカッダスィーもパレスチナにおけるレモン栽培を記録している。

アッバース朝でのレモンの利用

 10世紀半ばにワッラークが編纂したアッバース朝宮廷料理書『料理と食養生の書』によれば、レモン水ma’ līmūは、肉料理に振りかける酢やブドウ果汁の代わりに使用されていた。ただし、食材リストには果物としてのレモンの記録は無く、アッバース朝の宮廷があったバグダードではなじみの果物ではなかったと考えられている。

 レモンの薬用利用も11世紀から確認される。バグダードの医学者イブン・ジャズラは、シロップとジャムの健胃と解熱の効能、またそれらのレシピを記録している。ただし生果実としてのレモンの記述はないという。

 上記のように、11世紀・12世紀のイラクバグダードについては、レモン加工品であるレモンシロップの食材・薬としての利用記録は確認できるが、レモン栽培に関する記述はみつかっていない。このため、使用されたレモンシロップ類は、イラクでは製造されずに輸入されていた可能性が指摘されている。

アンダルスへの普及

 11世紀のアンダルス(イベリア半島)の農学者イブン・バッサールは、自著の農書『簡潔と明瞭の書』において、水利に恵まれ果物栽培に適した"第三の土地"に植えるべき果樹の一例として、シトロン、オレンジとともにレモンを挙げている。ただしオレンジの栽培法は記録されているものの、レモンの栽培法は記録されていない。このことから、レモン栽培は10世紀のアンダルス地域ではほとんど普及していなかったと考えられている。

 その後、アルメリア(スペインの南岸海岸都市)の学者で1349年(貞和五年)に没したイブン・ルユーンの農書に、オレンジ・サトウキビとともにレモンの栽培法が詳述されている。14世紀までには、レモン栽培はアンダルス地域で普及したとみられる。

 レモンの薬用利用は、12世紀のマグリブの医学者アブ・ル・アラーゥ・ズフルの『臨床の書』に記録がある。同書によれば、レモン酢は神経の麻痺が生じた部位に塗る軟膏として利用されている*1

 食用利用も13世紀にアンダルスで編纂された料理書にみえるという。すなわち、レモンの保存法として塩漬けレモンと酢漬けレモンの製法が専章を設けて記録されているとされる。そのころには大規模なレモンの消費が通年あったと考えられている。

エジプトでの普及

 エジプトでは10世紀にはすでにレモンが日常的に利用されていた。ファーティマ朝の宮廷医タミーミーは、レモン酢は(ブドウ)酢の代わりにパンの付け合わせとして食卓に供され、ライムーニーヤと呼ばれるレモン汁で煮た鶏肉料理が日常的に食べられていたと伝えている。

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 11世紀、レモンはエジプトの中心都市フスタートの市場で販売されていた。旅行家ナースィル・ホスローは、フスタートで接ぎ木レモンがリンゴ、イチジク、スイカ、バナナとともに店頭販売されていたことを伝えている。また瓶入りのレモンシロップがフスタートで流通・販売されていたことが、11世紀のユダヤ教徒の記録であるカイロ・ゲニザ文書のなかの領収書に記されているという。

 レモンの栽培については、8月から10月にかけての収穫と10月の塩漬け保存作業がイブン・マンマーティーの農事暦に記録されている。このことから、12世紀には農事暦に必要な情報として記録されるほど、エジプト各地でレモンの大規模な生産があったと考えられている。

レモンの医療利用

 12世紀、アイユーブ朝の宮廷医でユダヤ教徒医師イブン・ジュマイウによって『レモンの効能についての論考』(以下、『レモンの書』)が編纂される。これはアイユーブ朝スルタン・サラディンの依頼によるものであった。

 同書では前書きで以下のように記されており、エジプトによるレモンの医療利用の状況をうかがうことができる。

ある集団がエジプト人を侮蔑嘲笑する(話題の)中に、エジプト人のレモン利用がある。適正な方法で使用すれば素晴らしい薬効が現れるレモンを、エジプト人は病のあらゆる症状の治療に利用しているというのである。

 エジプトではレモンの医学的効能が10世紀から医学者らにより論じられていた。イブン・ジュマイウは『レモンの書』において10世紀から12世紀の4人のエジプト在住医学者のレモン見解を参考引用している*2

 レモンに期待されていた医学的効能の一つに解毒薬としての性能があった。当時のエジプトではテリアカとよばれる万能解毒剤が珍重されていたが、10世紀エルサレム出身の医学者タミーミーはレモン酢の舐剤を、テリアカ以上の強い解毒作用をもつ薬品として位置付けている。またレモンのシャラーブ(レモンシロップ)についても以下のように記している。

小さいレモンのシャラーブは、サソリの毒に効果がある。"大テリアカ"*3よりも効果がある。サソリや蛇の毒、それら(で作られた毒入り)飲食品に対しても(解毒)効果がある。

 『レモンの書』を編纂したイブン・ジュマイウ自身、レモンは猛毒サソリの毒に対しても解毒作用をもつことに言及している。

レモンは、サソリや毒蛇類から注がれた毒にも飲用された毒にも対抗する力をもっている。特にアスカルムクリムの地のジャラーラと呼ばれる猛毒のサソリの毒にも、多くの殺し薬にも効力がある。事前に飲めば、毒の害を少なくし、その害を払う力をもっている。服毒した場合は、ヨーグルトやバターを服用し胃のなかの毒の残留物を吐き出した後で(レモンを)服用すると効果がある。

 またレモンシロップについても毒蛇、蛇、サソリの毒に効果があるとし、「"ファールーク・テリアカ"と同じ効能をもつ」と記している。

 レモンがテリアカの代用解毒剤として求められた理由の一つは、テリアカは高価でさらに劇薬だったことがある*4。一方でレモンがテリアカより安全性に優れ、より安価で入手が容易であった。イブン・ジュマイウはレモンの安全性の高さを以下のように説明する。

つまりレモンには有益な効能が多数あるが、一方で隠された恐るべき害はない。体に大量に摂取しても、体内のどこにも残存しない。

 また解毒薬としてのレモンがエジプトで重宝された理由として、この時代のエジプト人が弱い薬を好む傾向があったことが指摘されている*5。このため最終的な解毒効果は同じでも、体への負担が小さい解毒薬、すなわち劇薬ではない解毒薬としてのレモンが求められていたのだという。

エジプト特産の接ぎ木レモン

 10世紀のエジプトでは接ぎ木によるレモンの品種改良が成功していた。それは"接ぎ木レモン"と名付けられた。『レモンの書』には10世紀の医学者タミーミーの記述が以下のように引用されている。

フスタートで大きな実の素晴らしいレモンが(元来種の)レモンから生まれた。レモンはシトロンの気に接ぎ木された。つまりレモンとシトロンの間から生まれた。その(接ぎ木)レモンは、大きく、丸く、シトロンのような果肉をもつ。ただし(シトロンより)強い苦味を持つ。著者(タミーミー)いわく、その強い苦味は、前述したレモンほど(強い)苦味ではない。このレモンは、(元来種)レモンやシトロンの香りとは異なる、驚くべき芳香をもち、美しい形となった。

 ただし効能についての見解は「果肉の効能はシトロンに類似する。ゆえにシトロン果汁と効能は同じく、小レモン果汁にある辛みと苦味はない」というもので、果実のみに限定した短いものであった。

 これに対し12世紀のイブン・ジュマイウは、『レモンの書』においてレモン皮と果肉の効能を以下のように説明している。

我々は(以下を)言及する。このレモン皮と苦味と辛みは、シトロンより多く、(元来種)レモンより少ない。加えて両者にはない少量の甘みがある。だから(このレモンは)両者にない滋養がある。その効能はレモンとシトロンの効能のちょうど中間にある。その果肉に顕著な甘さはない。シトロンの果肉はない緩下作用があるため、消化が早く胃に負担をかけない。

 イブン・ジュマイウは元来種のレモンとシトロンの効能との比較検討の上、"接ぎ木レモン"の部位全ての効能を決定している。この新しいレモンの効能の決定は、『レモンの書』の執筆の目的の一つであったともいわれる。

 また"接ぎ木レモン"は、その果汁が元来種レモンより酸味が少ないという点で、エジプト人の嗜好にあっていたともされる。エジプト人は元来種のレモンの強い酸味を好まなかったらしく、それは医学者タミーミーが「(レモンジャムは優れた薬効をもつが)酸味が強いので(エジプトの)人々はそれを利用しない」と述べていることなどからうかがえる*6

 "接ぎ木レモン"の生産はエジプトでその後も続いた。13世紀、医学者バグダーディーは『エジプト旅行記』において、次のように紹介している。

エジプトではイラクにはない多くの種類の果物がある。その一つに"接ぎ木レモン"がある。これはスイカより大きいものがある*7

 13世紀、接ぎ木技術によりレモンの種類はさらに増加。バグダーディーは"接ぎ木レモン"に加え、"刻印レモン"、"バルサム・レモン"という名のレモンを紹介している。その後も接ぎ木技術による新しいレモンの生産は中東で継続され、16世紀の医学者アンターキーの医学書のレモンの項目では、元来種のレモン、オレンジとの接ぎ木レモン、シトロンとの接ぎ木レモンの3種のレモンの効能が言及されている。

参考文献

  • 尾崎貴久子 「中世イスラーム世界のレモン利用と伝播に関する一考察−なぜ12世紀に『レモンの書』は編纂されたのか」(『地中海学研究』41 2018)

Kitab al-jami' li-mufradat al-adwiyah wa'l-aghdhiyah(イブン・バイタール『薬物集成』)
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File:Diya' al-Din Abu Muhammad ‘Abdullah ibn Ahmed al-Malaqi, known as Ibn Al-Baytar (d.1248), Kitab al-jami' li-mufradat al-adwiyah wa'l-aghdhiyah ('The Compendium on Simple Drugs and Foodstuffs'), Near East, circa 1300 AD.jpg - Wikimedia Commons

『レモンの書』の内容は、中世最大の本草書ともされる13世紀イブン・バイタールによる『薬物集成』にも多く引用された。バイタールはレモンの項目内容を『レモンの書』の引用抜粋のみで構成し、他の医学書からの引用をしていないという。
このことから、『レモンの書』の記述は13世紀以降の中世イスラーム世界でレモンの効能に関するもっとも信頼できる情報と評価されていたことがうかがえる。

*1:オレンジも同様で、イブン・バッサールは、油漬けしたオレンジ皮を麻痺部位やリューマチ患部に塗布すると効果があると記録している。

*2:それらは、イフシード朝の宮廷医バーリスィー、エルサレム生まれでテリアカ(古代から珍重された万能解毒剤)の卓越した処方で知られた医学者タミーミー、ファーティマ朝エジプトの医学者イブン・リドワーン、イブン・ジュマイウの教え子でカイロのナースィリー病院教授のイブン・アビ・ル・バヤーンであった。

*3:エルサレムの病院に勤務した医学者イブン・アッ・スーリーがテリアカの処方を改良したもの。

*4:12世紀の学者マイモニデスは、テリアカを処方されたマグリブの支配者の容態が急変して死に至った理由を、服用の量と回数における医学者の処方ミスに帰している。テリアカが処方が難しい薬品であったことがうかがえる。

*5:12世紀にコルドバからエジプトのフスタートに移住した学者マイモニデスは、エジプト人がテリアカの強い薬効を好まなかったことを記す。彼らは身近な花を混ぜたり、身近な果物を用いたりして薬を作り、下剤薬もできるだけ緩下性(弱い下剤力)のものを使用し、さらにどのような病気においても身近にある薬や食品、かつ少ない種類に限定して使用し、治癒しようと述べている。

*6:12世紀のアブ・ル・バヤーンも「レモンの酸味を好む人は少数である。だから多くの人とシャラーブ屋は(レモンシロップに)砂糖を投入する」と言及している。

*7:なおイブン・ジュマイウは"接ぎ木レモン"に"大レモン"と呼び名をつけている。それは大型のために1個でより多くの果汁がとれる有用性の高いレモンであったとみられる。