2021-05-01から1ヶ月間の記事一覧
弓削島荘所務職を持つ村上治部進の一族か。弓削島荘に侵入する諸勢力と戦った。
伊予国弓削島にあった東寺領弓削島荘の所務職。応永二十八年(1420)八月に所務職となった村上右衛門尉の子か。
伊予国弓削島にあった東寺領弓削島荘の所務職。来島村上氏の系統か。
能島村上家臣。杢之允。武吉、元吉に仕えた。
能島村上家臣。家中にあって主に毛利氏との折衝を担当した。
能島村上家臣。仮名は少輔五郎。官途名は弾正忠、後に八郎左衛門。村上隆重の子。景則の父。東吉種の弟。妻は小早川家臣・椋梨景良の娘。父隆重とともに備中笠岡に進出して以後は、主家を支えつつも小早川警固衆としても活動するようになる。
能島村上家臣。官途名は中務少輔、後に越前守。村上武吉に仕えて活躍した。
能島村上氏の有力者。16世紀中頃、若き当主・村上武吉とともに能島村上氏の代表者的な役割を果たした。
能島村上氏に属す今岡氏の一族か。官途名は民部大輔。天文二年(1533)頃の十一月、薩摩島津氏に琉球渡航を打診した。
能島村上氏に属す今岡氏の一族か。官途名は民部大輔。天文二年(1533)頃の十一月、薩摩島津氏に琉球渡航を打診した。
能島村上氏の一族。官途名は掃部助、あるいは掃部頭。村上隆勝の次男。武吉の父。兄に義雅、弟に隆重がいる。
能島村上氏の当主。官途名は 宮内大輔、後に山城守。子に義雅、義忠、隆重。村上武吉の祖父にあたる。
因島村上氏の当主。吉資の父か。因島村上氏として史料上に初めてみえる人物。備後守護・山名氏より田島地頭職を得る一方で、「海賊」としても知られた。
因島村上氏の家臣。大炊助。明光の子。15世紀中頃、金蓮寺などの因島の造営事業や水運などに関わった。
因島村上氏の当主。官途名は新蔵人、後に加賀守。先代当主・吉直の子。吉充、亮康の父。
因島村上氏の当主。備中守。吉充の子。尚吉の父。
因島村上氏の当主。官途名は新蔵人。先代当主・吉資の子。吉直の父。
因島村上氏の当主。官途名は備中守。吉充の父。村上備中入道の子か。因島の地頭職を獲得するなど同氏の基盤を固めた。
生口氏の当主。仮名は孫三郎。官途名は刑部丞。毛利氏、小早川氏の警固衆の将として、大友氏や織田氏との戦いで活躍した。また生口島において寺社の造営に関わったと伝えられている。
生口氏の当主。生口島向上寺の梵鐘銘にその名がみえる。
小早川生口氏の当主。小早川煕平の子。小早川敬平、乃美是景の弟。将軍・足利義植の近江遠征に従軍した。
小早川生口氏の当主。官途名は刑部丞あるいは刑部少輔。公実の庶子。向上寺三重塔の建立に関わった。
小早川生口氏の当主。因幡守。法名は道貫。惟平の子。守平の父。沼田小早川氏の有力庶子家であり、生口島の支配を固めた。幕府から「生口舟」の関税堪過特権を得るも、すぐに剥奪された。
宇賀島を根拠地とした宇賀島衆の頭領か。京都・東福寺の梅霖守龍が記した「梅林守龍周防下向日記」にみえる。
大内氏被官。新右衛門尉。長胤の子。永正六年(1509)八月、竹原小早川氏の所領と接する黒瀬村助実女子畑などの知行について大内義興から証判を得ている。
竹原小早川家臣。天文年間に警固衆の一員として活躍した。
竹原小早川家臣。京都での上番を担当した一人。
小早川家臣。仮名は孫四郎。竹原小早川氏の庶家・木谷氏の出身で、 隆景に仕えた。
竹原小早川家臣。東西条鏡山城陥落の際、城将・蔵田房信の妻子を預かったという。
竹原小早川家臣。小早川弘平に仕え、家中でも高い位置にあったとみられる。