伊予国弓削島にあった東寺領弓削島荘*1の所務職*2。応永二十八年(1420)八月に所務職となった村上右衛門尉の子か。
東寺からの要請
康正二年(1456)、村上治部進は、東寺から弓削島荘の所務請負の話を持ち掛けられた。当時の弓削島荘は、安芸国の小早川小泉氏らの活動によって、年貢収取が滞るようになっていた。治部進は東寺との間になんらかのつながりがあったようで、上洛した時に東寺の関係者と面会し、所務職請負を打診されたらしい。
治部進の報告
同年五月、帰国した治部進は、弓削島の状況についての報告書*3を東寺地蔵堂宛てに提出した。弓削島荘は、安芸国の小早川小泉氏*4、讃岐国の山路氏*5、伊予国の「能島両村」の4人が支配していること、小早川小泉氏、山路氏は細川氏に奉公する面々であることなどが、報告されている。
請負の条件
治部進は、所務請負を引き受けるにあたり、条件として「公方様」の関与、具体的には管領・細川勝元の「折紙」(命令文書)を要求した。小早川小泉氏や山路氏が、細川氏の家人である為とみられる。
一方で、能島に対しては「我々かやうに申し候とはおほせあるまじく候」(私がこのように言っていることは、絶対に言わないで下さい)と述べている。能島との微妙な関係がうかがわれる。
管領細川勝元の承認
東寺は、治部進の要求通りに動いた。同年九月十六日、管領細川勝元は治部進に対して、「近年有名無実」となった弓削島の知行を命じる内書を発給した。
九月二十一日、東寺は治部進に管領内書を送達するとともに、同二十七日付で早く荘園の現地に入部することを求めている。
その後の弓削島荘
しかし弓削島荘の状況は改善しなかった。7年後の寛正四年(1463)六月、東寺雑掌の報告によれば、治部進の所務職を認めない小泉氏が、山路氏以下の海賊とともに弓削島で押妨を働く事態となっていた。東寺側は「以外所業也」と非難し、幕府に対しこれを停止するよう要請している。
この史料を最後に、弓削島荘は史料上から姿を消す。
参考文献
- 山内譲 『海賊衆 来島村上氏とその時代』2014
*1:弓削島荘は、平安末期に立荘された荘園。鎌倉前期、後白河上皇の娘である宣陽門院から東寺に寄進されて東寺領となった。塩を生産して荘園領主のもとに送ったため、「塩の荘園」として知られる。
*2:年貢の納入を請け負う仕事。
*3:治部進は、伊予国の情勢についても詳細を伝えている。伊予国では「弓矢」(戦争)が延々と続き、「のりみち」(河野教通)が「しげみひだ」(重見飛騨)とともに「きくま(菊間)と申所」に入ったものの、戦いは負けそうであるとしている。当時、河野氏惣領家の教通は、庶子家の通春と争っていた。また重見飛騨は、越智郡の国人領主・重見通実のことで、この時期に教通方として行動していたことが、他の史料から確認できる(「小早川家文書」)。治部進がかなり正確に、伊予国内の情報をつかんでいたことがうかがえる。