戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

安宿 胤平 あすか たねひら

 南北朝初期の小早川一族。美作五郎。左衛門尉。東寺領であった伊予国削島荘に他の小早川庶子家とともに進出し、同荘の鯨浦に代官をおいて支配した。その姓から、本拠は安芸国豊田郡安宿郷であったと推定される。

伊予国弓削島荘の支配

 康永二年(1343)十一月、伊予国弓削島荘鯨浦には安宿美作五郎(胤平)の代官・大弐房貞秀がおり、現地状況の報告を行っている(「東寺百合文書」)。

 安宿胤平の弓削島荘進出の背景には、小早川氏の伊予国侵攻がある。

 康永元年(1342)、小早川氏の軍勢は北朝方の備後守護・細川頼春に従って伊予国へ出陣。その途上、十月六日に南朝方が篭る生口島の城郭を陥落させた後、同十九日に南朝方拠点であった伊予国勢田城(愛媛県西条市)を攻略した(「小早川家文書」拾遺9)。

 この翌年の康永二年(1343)四月、弓削島荘の東寺雑掌・光信が「小早川備後前司(貞平)、同庶子等并当所住人民部房・四郎次郎以下輩」が未だに退散せずに、いよいよ「濫妨狼藉」をはたらいている、と室町幕府に訴え出る(「東寺百合文書」)。小早川氏が伊予国での戦いの後に弓削島荘に進出していたことが分かる。

 康永二年(1343)十一月、弓削島荘鯨浦に胤平が代官を置いていたことは既に述べた。同時期、鯨浦には浦氏実、同荘串浦には小坂鶴夜叉と船木弾正忠も、それぞれ代官を置いていたことが史料上確認できる(「東寺百合文書」)。

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 なお船木弾正忠代官の信妙は、串浦沙汰人百姓中に対して「弓削嶋所務事、軍忠ニよてあつけ給はる間、御知行のところ」と述べている。小早川庶子家は伊予国攻めの恩賞として、所務職を得たと主張していたらしい。

 これに対して、幕府および細川頼春は東寺を支持して安宿氏ら小早川庶子家に弓削島からの退去を迫った。一方で康永二年(1343)十二月、安宿胤平代官の大弐房貞秀は東寺の預所に対し、「ふなきとの、あすかとのさり申ましく候よし」と伝えており、所務職の去り渡しを拒絶する姿勢であった。

 代官貞秀はまた、預所への書状の中で「いち(市)」や、「をのミち(尾道)」について言及している。彼らが商業に深い関心を寄せていることがうかがえる。

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室町幕府の介入

 貞和五年(1349)、幕府は東寺からの再三の訴えを受けて、近藤又六郎(国崇)と金子太郎左衛門入道(善喜)を使節に任じて弓削島に入部させることとした。室町幕府引付頭人・上杉重能は、小早河中務入道(道円)*1、美作五郎(胤平)、小坂三郎(秀遠)がたびたび幕府の命令に背いているので、その濫妨を停止させ、弓削島を東寺雑掌・光信に打ち渡すことが目的であったと述べている。

 弓削島串方や鯨方の散用状によると、近藤・金子の両使は三月二十六日に「尾路」(尾道)に到着。二ヶ月近く同地に滞在した後、五月二十二日にようやく弓削島に入部した。この間、東寺の雑掌は尾道に向けてしばしば入部催促の使いを送っている。

 島に入部した両使は、6日間滞在して弓削島荘を東寺雑掌に打ち渡した。しかし東寺の雑掌は「敵方猶不退散」と記しており、小早川氏の勢力は残存していた。これに対し、東寺は用心のために警固を雇わなくてはならず、「カノ原大夫房」や「右馬三郎」、「オキ嶋六郎」、「野嶋」*2らへの酒肴料や兵士料が経費として計上されている。

 結局、両使は安宿氏ら小早川庶子家の勢力を排除できなかったらしい。同年六月四日、室町幕府引付頭人・上杉重能は、近藤および金子に対して、「不事行之上、使節又不申左右云々、甚無謂、不日可遂其節、若猶遅引者、任被定置之法、可有其咎之状」として、任務が遂行されていないことについて、責任を追求している。

 同年九月、「安須賀美作五郎」(安宿胤平)は小早川(船木)弾正忠、小坂鶴夜叉丸、浦左衛門太郎(氏実)らとともに名指しで東寺から非難される。九月一日、美作五郎ら小早川庶子家は田中次郎兵衛尉ら伊予国武士の加勢を得て多人数を擁し、「国中忩劇之隙」に弓削島に打ち入り、百姓住宅を追捕し、乱妨狼藉をはたらいたという。その暴挙に対して「濫吹之至言、言語道断次第也」と糾弾し、一刻も早く濫妨を停止させるよう幕府に訴えた(「東寺百合文書」)。

 しかし、その後も小早川庶子家は弓削島に居座り続けた。観応三年(1352)六月、東寺雑掌・光信は、小早川小泉五郎左衛門(氏平)、小早川(船木)弾正忠、浦左衛門太郎(氏実)、美作五郎(胤平)、小坂三郎秀遠の名を挙げ、彼らが御教書を無視し、寺家の雑掌を追い出し、下地を押領していると改めて非難。その罪は重いとして、彼ら濫妨人を排除する御教書を改めて下してほしいと訴えている(「東寺百合文書」)。

安芸国久芳保地頭職

 正平六年(1351)十二月二十三日付の「足利義詮下文写」には、「小早川美作彦五郎胤平」が足利義詮から勲功を賞され、安芸国久芳郷半分を与えらえたことが記されている(「小早川家文書」525)。ただし年号が南朝のものであることなどから、この文書には疑問が持たれている。

 しかし延文二年(1357)八月九日付の「細川頼之施行状写」*3に、安芸国久芳保地頭職半分が「小早河美作五郎左衛門尉胤平」に与えられていたことがみえる(「小早川家文書」534)。このため、胤平が久芳保(現在の東広島市福富町久芳)を得ていたこと自体は事実とみられる。

 久芳郷(久芳保)のその後を少し見る。至徳元年(1384)十二月、将軍足利義満御教書により、久芳郷半分が将軍家科所とされ、小早川駿河五郎(小泉宗平*4)に預けられた(「小早川家文書」537)。

 その2年後の至徳三年(1386)十月、足利義満は小早川上総介春貞と小早川右京亮兼平にそれぞれ久芳郷半分を安堵している(「小早川家文書」538、539)。あるいはこの春貞と兼平のいずれかは、安宿胤平の子なのかもしれない。

参考文献

椋梨川右岸の独立丘陵に築かれた吉末城跡。一説には安宿氏の城ともいわれる。

吉末城の東側堀切の跡

吉末城跡南麓の石塔群

*1:小早川中務入道は船木郷を領した小早川(船木)貞茂であり、出家して道円を号した。

*2:後の能島村上氏の前身ともいわれる。

*3:細川頼之は頼春の子。当時、幕府の中国管領の地位にあった。

*4:小泉氏平の子。