戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

小早川 頼平 こばやかわ よりひら

 沼田小早川氏の一族。官途名は民部丞、民部大夫。忠義の子で茂遠の孫。兄に清忠がいる。惣領家とは異なる立場をとっており、元弘の乱では兄とともに後醍醐天皇に味方し、建武の乱以後は南朝方として戦った。

元弘の乱

 元弘の乱において、沼田小早川氏惣領家は幕府方として京都六波羅に参陣。一方で、頼平とその兄の孫太郎清忠は、後醍醐天皇に味方していた。

 元弘三年(1333)五月六日、平孫太郎(小早川清忠)は伯耆国船上山の後醍醐天皇から、京都へ発向して合戦の忠を致すよう命じられる(「小早川家文書」3)*1。翌五月七日、足利高氏らによって京都六波羅は陥落した。

 同年五月二十二日、小早川頼平は氏寺である楽音寺に、四季に大般若経を供養する法会を営む費用として1町2反の免田を寄進。寄進状に「民部丞平頼平」と署名し、「聖朝安穏 天下太平 民屋豊稔 万民快楽」を願っている。(「楽音寺文書」14)。奇しくも、鎌倉が新田義貞によって攻略され、得宗家当主の北条高時らが自害した当日であった。

 鎌倉幕府滅亡直後の元弘三年七月十九日、後醍醐天皇は綸旨を発して小早川美作民部丞(頼平)*2安芸国沼田荘内の小坂郷、野義(野美)郷、伊予国高市郷を安堵している(「小早川家文書」2)。頼平の働きを賞してのものとみられる。

 なお伊予国高市郷については、正和三年(1314)七月、伊予国高市郷代官景房が海賊人雅楽左衛門次郎を捕らえたとして、頼平の祖父茂遠に比定される小早川美作民部大夫が六波羅探題から賞されている(「小早川家文書」16)。このことから、茂遠が伊予国高市郷地頭として代官をおいていたことが分かる。高市郷は祖父茂遠から父忠義を経て頼平に継承されていたのだろう。安芸国小坂郷、野美郷も同様と推定される。

高山城の戦い

 頼平は建武政権にも参加。中央機関である武者所の一員となっており、建武三年(1336)四月、武者所の二番に「小早川民部丞平頼平」の名がみえる(『建武記』)。また建武元年(1334)九月の後醍醐天皇賀茂社行幸の際には、小早川孫太郎(清忠)が竹原小早川祐景とともに足利尊氏に供奉する隋兵としてこれに参加している(「小早川家文書」294)。

 しかし建武三年(1336)五月、九州から東上した足利尊氏の軍勢が京都に入り、後醍醐天皇は抵抗するも建武政権は崩壊。後に後醍醐天皇は吉野へ脱出して南朝を開いた。

 建武五年(1338)正月、奥州から鎌倉に入っていた南朝方の北畠顕家が京都奪還のため、進軍を開始。尊氏ら北朝方は京都防衛のため各地から味方を招集しており、安芸国からは惣領家の小早川(小泉)氏平や竹原小早川祐景、さらには安芸国守護・武田信武も多くの安芸国武士を率いて出陣した。

 この時、安芸国北朝方が手薄となった隙を見計らってか、南朝方が攻勢に出る。

 伊予国忽那島地頭・忽那重清の軍忠状によれば、建武五年三月三日、「小早河民部大夫入道相順」が同左近将監景平らとともに、惣領家の本拠である安芸国沼田荘の妻高山城を占領して立て篭もる。「小早河民部大夫入道相順」は出家した小早川頼平とみられる。これに対し尊氏の部将・岩松頼宥が忽那重清らを率いて三月七日に出陣し、同十一日に着陣した(「忽那家文書」32)。

 同じ頃、沼田新荘の上山(現在の東広島市河内町宇山)でも、小早川掃部助(上山高平)が一族の針田四郎入道らとともに「上山城」に立て篭もっていた。しかし三月九日、安芸国守護代・福嶋左衛門四郎入道率いる軍勢によって追い落とされている(「毛利家文書」1526)。

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 さらに三月十日、南朝方の安芸国大将・万里小路継平や備後大将・吉田高冬、石見の福屋弥太郎左衛門尉、桜井荘領家・増賀法眼らが多数の軍勢を率いて安芸国山県郡大朝新荘に攻め込んだ。

 なお、北朝方の周防親重軍忠状には、発向した南朝方として上記の将のほかに「小早河掃部助」「同民部入道」の名も挙げられている(「吉川家文書」1158)。頼平は上山高平とともに万里小路継平・吉田高冬らの軍勢に合流したのだろう。頼平が立て篭もった妻高山城は、岩松頼宥らが着陣した三月十一日から間も無くして陥落したとみられる。

 南朝方は安芸国山県郡から南下し、三月十五日、広島湾頭の開田荘火村山(現在の海田町日浦山)に城郭を構えて立て篭もった。これに対し、北朝方は安芸国守護代・福嶋左衛門四郎入道が三戸頼覚や須藤景成(吉川辰熊丸代)、周防親重らを率いて攻撃。三月二十日に北朝方が城内に突入したことで、城は陥落した(「吉川家文書」1158、「毛利家文書」1526)。

野美城合戦

 文和四年(1355)九月、安芸国沼田荘野美郷と思しき「野美城以下所々」において合戦があった。沼田小早川氏当主・小早川貞平の注進を受けた足利義詮が、幕府方として戦った小早川一族の戦功を賞している*3(「小早川家文書」528~533)。

 この時、野美城に拠って幕府方の小早川氏と戦った勢力として、小早川頼平(またはその後継者)が考えられる。前述のように、元弘三年(1333)七月、小早川頼平は後醍醐天皇から小坂郷、野美郷、伊予国高市郷を安堵されており、野美郷は本領の一つであったとみられる。

 また合戦の3ヶ月前の文和四年(1355)六月頃には、幕府と敵対する足利直冬方の軍勢が、沼田小早川氏の本拠である妻高山城にまで迫り、竹原小早川氏の支援によって撃退されている(「小早川家文書」307)。頼平(またはその後継者)は、直冬方として戦っていたのかもしれない。

 野美城合戦の結果は不明だが、合戦後も野美郷は頼平の子孫に継承されていた可能性がある。

 永徳三年(1383)三月、掃部助頼秀という人物が、惣領家の沼田小早川春平に対し、亡父心照の遺領のことで争論があったことを詫び、今後山名方への奉公をやめ、権門や縁者を語らって小坂郷への違乱をやめると誓ったうえで、現在所領としている野美郷を保障するように依頼している(「小早川家文書」30)。野美郷を知行し、小坂郷にも関係を持ち、頼平とは「頼」の字が共通していることなどから、頼秀を頼平の子孫とする見方がある。

 頼秀を頼平の子孫とした場合、頼平が惣領家と敵対したことにより、小坂郷は惣領家によって占領されていたとみられる*4。また、直冬没落後は山名氏の被官となって惣領家に対抗していたことも分かる。

参考文献

高山城の遠景。小早川頼平が籠城した「妻高山城」は、つまり小早川氏の本拠である高山城だったともいわれる。

*1:太平記』には隠岐の島から脱出して船上山に籠もった後醍醐天皇のもとには安芸国からも熊谷氏、小早川氏、石井氏らの武士が馳せ参じたと記されている。ここにみえる小早川氏は、清忠である可能性もある。

*2:「美作」民部丞とあるのは、頼平の曽祖父・忠茂の受領名が美作守であったためか。

*3:野美城合戦に関わる足利義詮の感状の対象として確認できるのは、小早川五郎太郎、小早川次郎四郎、小早川五郎兵衛尉、小早川掃部助、小早川小田将監、小早川出雲五郎左衛門尉ら。

*4:一方で、小坂郷を惣領家と争った為に、頼平は南朝方となった可能性もある。