戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

生口 惟平 いくち これひら

 小早川氏の庶子家・小早川生口氏の初代。幼名は道祖鶴丸。官途名は弾正左衛門尉。惣領家である沼田小早川氏当主・小早川宣平の子。公実の父。兄弟に小早川貞平、猪熊資平、小坂将平、小泉氏平、浦氏実、末弘明平、応庵祖璿らがいる。

父宣平の譲状

 暦応四年(1341)十月、出家して円照を号していた小早川宣平は、子の道祖鶴丸に沼田荘内安直方潟島新田内光包名及び同荘内の新田2町を譲るとする譲状を作成。この道祖鶴丸が、後の生口惟平に比定される。譲状には、円照(宣平)のほか、惟平の兄である応庵祖璿、空円(猪熊資平)、小早川貞平、小泉氏平、浦氏実が署名している(「小早川家文書」22)。

 上記所領のうち光包名は、応永三十五年(1428)六月に惟平の子・公実が作成した譲状にもみえ(「小早川家文書」540)、惟平の子孫が伝領していたことが分かる。惟平はこの新田を得て、小早川氏の新たな庶子家を興したとみられる。

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小早川氏の生口島進出

 康永元年(1342)、小泉氏平ら小早川氏の軍勢は北朝方として伊予国へ出陣する。その途上の十月四日、南朝方が篭る生口島の城郭を攻撃して「大手木戸口」で合戦となり、同六日、城を陥落させた。(「小早川家文書」拾遺9)。これが小早川氏の生口島進出のきっかけとなった。

 後に小早川氏は、生口島を沼田荘に取り込んだ*1。惟平を惣領家の分家として生口島に配置し、同島および瀬戸田浦の支配を固めていく。

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合戦での活躍

 生口惟平は、小早川氏の将として各地を歴戦した。観応三年(1352)四月、京都近郊の八幡山の合戦に参加し、足利尊氏から忠節を賞された(「小早川家文書」526)。小早川氏は観応の擾乱では足利尊氏・義詮方に属して行動しており、惟平もその一翼を担っていたとみられる。

 惟平は翌年の文和二年(1353)十二月に、足利義詮から「安芸国入野城合戦」でも戦功を挙げて褒賞されている(「小早川家文書」527)*2。その後も貞治三年(1364)十月に、小早川春平の上申で安芸西条合戦の際に忠節を尽くしたことを褒賞されている(「小早川家文書」535)。

 当時の安芸国高田郡から賀茂郡にかけての内陸地域では、尊氏に敵対する足利直冬の勢力があった。

 前述の入野城の所在地である入野郷では、観応二年(1351)に西条弥六左衛門入道や大多和左衛門太郎が、尊氏方の武石胤泰の所領を押領。文和三年(1354)九月には、大多和八郎太郎入道、小池大輔房らの領地が、勲功の賞として足利尊氏から高屋の平賀貞宗に宛行われている。これら大多和氏や西条氏などが直冬方として尊氏方に対抗していたとみられる。

参考文献

大日本古文書 家わけ十一ノ二 小早川家文書之1-2
国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:永和四年(1377)には、生口島と同じく生口北荘に属していた高根島が、「芸州沼田庄内香根島」としてみえる(「永寿寺大般若経奥書」)

*2:この合戦では、竹原小早川実義も義詮から戦功を賞されている。