戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

生口 公実 いくち きみざね

 小早川生口氏の当主。因幡守。法名は道貫。惟平の子。守平の父。沼田小早川氏の有力庶子家であり、生口島の支配を固めた。幕府から「生口舟」の関税堪過特権を得るも、すぐに剥奪された。

向上庵の建立

 応永十年(1403)、生口島に、仏通寺の末寺として向上庵(後の向上寺)が建立された(「仏通寺文書」)。この時の当主は、生口公実であったと考えられる。

 応永二十一年(1414)、向上庵の維持のため、檀方が土地を32貫文で購入して寄進している。仏通寺は、これに謝意を示すとともに、向上庵が無住とならないよう配慮している。生口氏および小早川氏が、仏通寺と向上庵を通じて、生口島の掌握を進めていたとみられる。

仏通寺への寄進

 応永二十二年(1415)二月、仏通寺仏殿建立に際して小早川一族が馬を寄進している。その際のリストである「仏通寺仏殿立柱馬注文写」には、「屋形」(小早川惣領家当主・則平)に並んで「生口殿」が記されている*1(「小早川家文書」)。当時の生口氏が、一族内で重きをなしていたことがうかがえる。

大崎下島への加勢

 応永二十九年(1422)四月、小早川円春が、沙弥善麻の養子となって大崎下島の「久比浦」、「大条浦」、「興友浦」を譲られた。これから間もなく、「三島」(現在の愛媛県今治市大三島)の勢力が大崎下島に攻め込んできて合戦となったらしい(「小早川家証文」461号)。

 円春方には沼田小早川氏の庶子家が加勢し、三島の勢力を退けることができた。当時「大勢」で合力した生口氏、小泉氏、浦氏について、円春は深く感謝しており、後年に作成した置文の中でも「此御恩ともわすれ被申ましく候」と記している*2

海上輸送の特権獲得

  応永二十九年(1422)十二月、生口氏は室町幕府から、海上輸送に関する特権を認められる。それは「小早河生口因幡入道公実」の船を「生口舟」と号し、雑具など様々な物の運送するので、「海上諸関」並びに「河上」「兵庫両関」において関銭徴収を受けない、というものだった(「東大寺文書」)。

 この文書には、生口舟は「瀬戸田舟」とも号すとある。生口公実ら生口氏が、瀬戸田を拠点に海上輸送事業を展開していたことが分かる。

 しかし翌年三月、幕府の畠山満家が、兵庫両関の奉行に対し、生口公実の特権の取り消しを通達している(「東大寺文書」)。本来関銭を負担すべき瀬戸田の商船などが、「生口船」と号して関銭を払わずに、兵庫の関を通過する事案が、多数発生したためであった。

孫への譲状

 応永三十五年(1428)六月、公実は嫡孫・小法師丸への譲状を作成した(「小早川家文書」)。小法師丸に譲渡する所領と、公実の子・刑部丞(守平)に譲る「庶子分」が定められた。併せて小法師丸の成人までは、刑部丞が生口島の沙汰を行うこととされた。

 譲状には初代・惟平が得た光包名もみえる。公実はこの地の開発にも力を入れており、同地には「道貫土手」が江戸期まで存在していたという。

参考文献

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向上寺から眺めた瀬戸田の町と対岸の高根島。

*1:他に「竹原殿」(竹原小早川氏)や「小泉殿」「梨羽殿」「小泉殿」といった小早川一族、真田氏などの奉行衆、商人らしき人物の名も記されている。

*2:一方で、小早川庶子家・土倉氏は、たいした働きもせずに、所領の割譲を要求してきたらしい。円春は「余所様さへ御扶持候処、はくら殿所領配分候ハすハ、合力あるましき儀ハ如何、不心得候」と記している