戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

浦 氏実 うら うじざね

 沼田小早川氏庶子家・浦氏の初代当主。左衛門太郎。小早川宣平の子。兄弟に小早川貞平、猪熊資平、小坂将平、小泉氏平、生口惟平、末弘明平、応庵祖璿らがいる。伊予国弓削島荘に他の庶子家とともに進出した。

浦氏の初代

 「浦家文書」の「浦家家系」は、浦左衛門太郎氏実は小早川安芸守宣平の七男であり、安芸国豊田郡浦ノ郷に住居し、浦氏の始祖となったとある。父宣平から沼田荘浦郷*1を分割譲与され、新たな庶子家を興したとみられる。

 なお三原市幸崎町渡瀬の行蔵庵に残されている浦熈氏(浦氏四代目)の掛け軸画箱の蓋内側に、江戸期の浦家当主・浦元敏が「芸州渡瀬乃古之浦郷也我祖主此地以故以浦姓之今参河守熈氏像」と記している。浦郷入部当初、氏実が居館をおいたのは、同郷の渡瀬だったのかもしれない。

父・兄弟との連署

 暦応四年(1341)十月十日、出家して円照を号していた小早川宣平は、氏寺巨真山寺の仏事興隆のための置文を作成。これに円照(宣平)本人とその子息である巨真山寺住職・応庵祖璿、空円(猪熊資平)、小早川貞平、小泉氏平、浦氏実が連署している(「小早川家文書」21)。

 置文は二箇条からなり、その第一条には、この寺の仏事を行う費用に充てる課役は新田譲得の人たちが寄り合って、各人の所領の程度によってそれを支出するようにといっている。浦氏実が、父宣平から新田を譲られていたことがうかがえる。なお上記のうち小泉氏は、本郷塩入本新田三町などを伝領していたことが知られる(「小早川家文書」拾遺6)。

 置文の第二条は、巨真山寺の修理・掃除は「新田百姓」が行うべきと定めている。併せて「新田百姓」は沼田川の堤防を修固するための人夫役などの課役だけは賦課されるが、荘内の一般百姓のような課役は課されない、ともしている。「新田百姓」が一般の百姓と区別されていたことがうかがえる。

 また同日、円照(小早川宣平)は子の道祖鶴丸(後の生口惟平)に沼田荘内安直方潟島新田内光包名及び同荘内の新田2町を譲るとする譲状を作成。円照(宣平)、氏実など上記置文と同じ人物が連署している(「小早川家文書」22)。

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伊予国弓削島への進出

 康永元年(1342)、小早川氏の軍勢は北朝方の備後守護・細川頼春に従って伊予国へ出陣する。「小早川(小泉)氏平軍忠状」によれば、その途上の十月四日、南朝方が篭る生口島の城郭を攻撃し、同六日に陥落させた。

 その後の同九日、南朝方の拠点であった伊予国の勢田城(愛媛県西条市)を攻撃。十八日・十九日の両日の合戦で、城の木戸を破って討ち入り、小泉氏平の家人らが負傷するも、敵方の首を挙げている(「小早川家文書」拾遺9)。

 さらに小早川氏は、伊予国攻めの恩賞か、伊予国の東寺領弓削島荘の所務職を得たとして同国弓削島に進出した。康永二年(1343)四月、東寺雑掌の光信は「小早川備後前司(貞平)、同庶子等并当所住人民部房・四郎次郎以下輩」が未だに退散せずに、いよいよ「濫妨狼藉」をはたらいている、と室町幕府に訴え出ている(「東寺百合文書」)。

 これを受けて幕府引付頭人から細川頼春に対し、小早川氏らを排除し、弓削島荘を東寺に打ち渡すよう奉書が出される(「東寺百合文書」)。頼春も「小早河一族御中」に宛てて弓削島を明け渡すよう命令を下したが(「東寺百合文書」)、効果はなかった。

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 康永二年(1343)十一月、弓削島荘鯨浦*2には浦氏実の代官・丹後房がおり、現地状況の報告を行っている(「東寺百合文書」)。

 弓削島荘鯨浦には氏実のほかに安宿胤平が、同荘串浦には小坂鶴夜叉と船木弾正忠が、それぞれ代官を置いていたことが史料上確認できる(「東寺百合文書」)。前述で東寺雑掌・光信が濫妨狼藉の犯人として言及した「小早川備後前司、同庶子等」とは、惣領小早川貞平とその庶子家である浦氏実らを指していたとみられる。

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「濫吹之至言、言語道断次第也」

 貞和五年(1349)九月、氏実は小早川(船木)弾正忠、小坂鶴夜叉丸、安須賀美作五郎(安宿胤平)らとともに名指しで東寺から非難される。

 東寺曰く、伊予国弓削島荘は「往古之寺領、重色之科所」であった。しかし、九月一日、氏実ら小早川庶子家は田中次郎兵衛尉ら伊予国武士の加勢を得て「国中忩劇之隙」に弓削島に打ち入り、百姓住宅を追捕し、乱妨狼藉をはたらいたという。その暴挙に対して「濫吹之至言、言語道断次第也」と糾弾し、一刻も早く濫妨を停止させるよう幕府に訴えている(「東寺百合文書」)。

 幕府からは、弓削島荘における小早川一族の濫妨停止を命じた御教書が何度か出されたが、東寺にとって状況は好転しなかった。

 観応三年(1352)六月、東寺雑掌・光信は、小早川小泉五郎左衛門(氏平)、小早川(船木)弾正忠*3、浦左衛門太郎(氏実)、美作五郎(安宿胤平)、小坂三郎秀遠の名を挙げ、彼らが御教書を無視し、寺家の雑掌を追い出し、下地を押領していると非難。その罪は重いとして、彼ら濫妨人を排除する御教書を改めて下してほしいと訴えている(「東寺百合文書」)。

 ただ延文年間になると状況に変化があったらしい。延文二年(1357)八月、足利義詮は東寺雑掌・光信の訴えを受けて細川頼之に御教書を出しているが、小泉氏平の名のみが挙げられ、その排除が命じられている。以後、弓削島荘における小早川庶子家の活動は、小泉氏以外確認できなくなる。

参考文献

三原市幸崎町渡瀬地区(竹原市忠海との境近く)

渡瀬地区の石塔

*1:田野浦・須波・能地・渡瀬・忠海などを含む

*2:当時の弓削島荘は鯨方、大串方、串方に三分されており、そのうち鯨方と串方が領家分で、大串方が地頭分に属していた。

*3:ここでは「小早川中務入道子息弾正忠」とある。小早川中務入道は船木郷を領した小早川(船木)貞茂であり、出家して道円を号した。