大崎西庄(大崎上島町のうち木江・沖浦・明石)の地頭。応永三十三年(1426)の御串山八幡宮(大崎上島町明石)の社殿造立に関わった。安芸国人・沼田小早川氏の庶子家である土倉氏の当主か。
大崎西庄の地頭
現在の大崎上島町明石に鎮座する御串山八幡宮の応永三十五年(1428)四月十一日の棟札によると、応永三十三年(1426)に同八幡宮3回目の社殿造営が行われた。棟札の表面の右寄りには、以下のように記されている。
当地頭土倉殿平冬平 大願主高橋左京助大宅光重
当時、御串山八幡宮のあった大崎西庄の地頭が土倉冬平であったこと、そして造立の大願主は高橋左京助光重であったことが分かる。
大崎上島は、建長五年(1253)には「安芸国大崎庄」としてみえる(「近衛家所領目録写」)。室町期には東、中、西に分かれており、大崎東庄および中庄は、沼田小早川氏惣領家が直轄地として代官と公文をおいて支配していた(「小早川家文書」)。
沼田小早川氏庶子家・土倉氏
大崎西庄の地頭であった土倉氏は、沼田小早川春平の弟・夏平を祖とする沼田小早川氏の庶子家であった。南北朝後期に惣領家から分出されたと考えられている。夏平が沼田庄内土倉村(三原市大和町徳良)に居住したことから、土倉氏を名乗ったと推定される。
遅くとも宝徳三年(1451)までに作成された「沼田小早川氏一族知行分注文」では、土倉氏は椋梨氏と並んで400貫の所領規模をもっており、庶子家の中では最も大きかった。
土倉氏の大崎西庄支配
先述のように、御串山八幡宮造営の大願主は、高橋左京助光重であった。この後、文明十二年(1480)十月の史料に、大崎中庄公文として高橋又五郎、同三郎左衛門尉がみえる(「小早川毛文書」)。さらに時期的に下るが、御串山八幡宮の慶長十五年(1610)六月の棟札に「当島沖浦之住人高橋子孫今者未田清兵衛」らが造立の大檀那となったことが記されている。
これらのことから、高橋氏は大崎上島においては中・西両庄に勢力を有する伝統的土豪であり、沼田小早川氏惣領家や土倉氏は、彼らを被官とすることで、大崎庄の支配を行っていたと考えられる。
なお江戸期の『芸藩通志』は、大崎上島の沖浦にある葛城跡について「土倉是右衛門冬平 所居 応永頃没落す」という言い伝えを記している。同城は、海岸に面した尾根上に立地し、周辺海域の見通しが良いことから、見張り所的な性格を持っていたとされる。遺構からは土師質土器や須恵質土器、備前焼(甕)、亀山焼(甕)、青磁、碁石、土錘(漁網につける重り)などが出土。これらの時期は主に、15〜16世紀と推定されている。
竹原小早川氏との関係
応永十八年(1411)四月、竹原小早川義春から次男の徳平に、沼田庄土倉*1の家実名や同庄田浦*2の行貞名、正時名、それに大崎西庄の兼行名上下を譲られた。また、この時に大崎島の実親名や「猟浜」*3も、同じく徳平に譲渡された(「小早川家文書」)。
徳平に譲られた所領は、義春が妻から譲られたものであり、義春の妻の実家は、土倉氏だったと考えられる。そして土倉氏の所領を継承した小早川徳平は、土倉氏の庶子家と位置づけらたとみられる。
大崎下島・大条浦の獲得
応永二十九年(1422)四月、徳平の子・円春は、大崎下島の「久比浦」、「大条浦」、「興友浦」を沙弥善麻という人物から譲られた。しかし間も無く、「三島」(大山積神社)の勢力が大崎下島に攻め寄せて合戦となった。
円春方には、土倉氏をはじめ小泉氏、浦氏、生口氏といった沼田小早川氏庶子家が、援軍として駆けつけた。御串山八幡宮造立に近い時期であり、あるいは土倉勢は冬平が率いたのかもしれない。
しかし他の庶子家に比べ、土倉勢の働きは消極的だったらしい。しかも代償として大条浦の半分を円春に割譲させた。これが不満だった円春は、文安三年(1446)に至るまで土倉氏に返還を要求。ついに土倉氏側は、4分の1は返すが、残る4分の1は大崎上島において代所を渡すと約束した(「小早川家文書」)。
土倉氏が大条浦支配に拘った背景には、すでに同氏が海賊衆としての性格を帯びており、主要航路上の良港を必要としていた事情があったとも言われている。