戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

南澳 らまう

 潮州府の東南に面した外海に浮かぶ南澳島の港町。16世紀、日本との密貿易の拠点となった。明代には所謂「潮州の海寇、多く南澳より入り」と言われ(『南澳程郷議』)、海寇の拠点でもあった。

明朝の防衛放棄

 明朝の初期、南澳島には水塞が設置されていた。しかし支配はうまくいっておらず、1382年(永徳二年)、南澳の住民が抵抗する為として、彼らを新設の潮陽千戸所に従軍させる命令が下された(『東里志』)。

 1404年(応永十一年)、南澳の民は島に復帰したが、その5年後には島民は再度大陸に移住させられた。その理由は「倭夷、海を越え劫掠す、防御に難し」というものであった(『南澳志』)。

 以後、南澳島は明朝の支配の外に置かれた。このため15世紀から16世紀にかけて、日本や東南アジア、福建・広州などから多くの商人が訪れ、一大密貿易拠点となっていく。

貿易の中継地

 ポルトガル人のフェルナン・メンデス・ピントは、琉球王国のジャンク船が銅を売りに行く港の一つにラマウ(南澳)を挙げている(『東洋遍歴記』)。ピントは、1547年(天文十六年)1月16日、薩摩の山川を出港してマラッカに向かう途中、中国のシンシェウを経由してラマウに寄航し、食料を補給したとする(『東洋遍歴記』)。

 またラマウ沿海を航行中に、琉球から来たパタニのジャンク船と遭遇したことがあった。その主は中国の海賊キアイ・パンジャンであり、30名のポルトガル人が同乗していたという(『東洋遍歴記』)。南澳が東南アジア・中国・琉球・日本の貿易の中継地であったことがうかがえる。

日本との交易

 明朝の嘉靖年間(1522年〜1566年)、富を持つ倭人は、福建人と密貿易を行うために南澳に集まり、全て銀でもって取引を行ったという(『続文献通考』巻31市糴考・市舶互市条)。『日本一鑑』には、1554年(天文二十三年)、徐銓らが倭を誘って南澳で交易を行い、再び日本へ行こうとしたところで明軍に捕捉され、徐銓は入水し、他の者は捕縛されたことがみえる(『日本一鑑』窮河話海 巻6)。

 王直の元配下で、外国との密貿易に従事していた洪廸珍は、王直の死後に残党の倭寇を吸収。南澳と漳州湾沖の浯嶼を拠点とした(『明世宗実録』)。弘治元年(1555)から翌年、洪は日本の富夷を南澳に誘致して交易を行い、以後毎年密貿易を行って巨万の富を得たという(康煕『海登県志』巻20叢談志)。

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海寇の拠点

 一方で『日本一鑑』は、南澳は1558年(永禄元年)までは海上交易の拠点であったが、以後は賊の巣窟となったとする。南澳を拠点とする海寇・許朝光は、倭寇を誘引し、倭寇は福建・広東方面の沿海地を襲撃しては南澳に帰還したという。劫奪された貨財や攫われた人間は、密貿易によって売り払われた(『日本一鑑』窮河話海 巻6)。

 同じく南澳を拠点とする海寇・謝策は、1560年(永禄三年)三月、福建の走馬渓に侵入し、ついで泉州や漳州各地を分掠した(『籌海図編』「寇踪図譜」)。その後も、呉平や曾一本ら海寇の拠点になっていることが史料に見える。

明朝の南澳支配の復活

 1562年(永禄五年)、明将・威継光は軍を率いて南澳に上陸し、呉平らの勢力を駆逐し、三城を付近に設けて防御の拠点とした(光諸『潮州府志』)。1567年(永禄十年)には、兪大猷らもまた南澳を拠点とする曾一本を海岸付近で殲滅。1571年(元亀二年)には楊老の船が停泊し、梁士楚らに追われている(光諸『潮州府志』)。

 1575年(天正三年)、明朝はついに南澳に副総兵官を設けた。しかし明朝内部には依然として否定的な意見があり、1582年(天正十年)、潮州知府の郭子章は専門の「南澳程郷議」を書き、南澳における副総兵官設置の利点を提唱している。

明清交代の中で

 1640年(寛永十七年)、元海賊で明朝に招撫された鄭芝龍が、南澳の総兵に就任。4年後に福建都督に昇進すると、総兵の職はその部将・陳豹に引き継がれた。

 陳豹は1646年(正保三年)に鄭芝龍が清朝に降伏した後も、南澳で依然として明朝を支持した。この為、南澳は鄭成功の反清復明活動の最も重要な軍事拠点の一つとなり、鄭成功は何度もここから大陸各地へ侵攻して行った。また、鄭氏勢力は中国東南海域の海上利権を独占しており、南澳は重要な海上貿易基地となった。

 しかし1662年(寛文元年)、陳豹は清朝に降伏。同年、清政府は潮州沿海における大規模な「遷海」政策を行い、南澳島と大陸沿海から数十キロメートルの住民は全て内陸へ移動させられた。1682年(貞享元年)、清朝が台湾を統一。同年に海禁は解除され、ようやく南澳の住民は元の生活を取り戻した。

 南澳島は、泉州・漳州・潮州の海上活動の中で特殊な位置にある為、清朝の規定では閩・粤両省の共同管理となった。その隆澳と深澳の両地は広東の潮州府に属し、雲澳と青澳は福建の漳州府に属した。

参考文献

  • 伊川健二 「16世紀前半における中国島嶼部交易の不安と安定」(鈴木英明 編 『中国社会研究叢書 21世紀「大国」の実態と展望7 東アジア海域から眺望する世界史―ネットワークと海域』 明石書店 2019)
  • 陳春声(白井順 訳) 「明代における潮州の海防と沿海地域の社会ー泉・漳・潮州における海上勢力の構造およびその影響ー」(井上徹 編 『東アジア海域叢書2 海域交流と政治権力の対応 汲古書院 2011)
  • 佐久間重雄 「中国嶺南海域の海寇と月港二十四将の反乱」(『日明関係史の研究』 吉川弘文館 1992)

潮州府図 籌海図編1(国立公文書館デジタルアーカイブ

浯嶼 ごしょ

 中国福建・漳州湾南東部の小島の港町。ポルトガル人らが集まる密貿易拠点であったが、後に現地の海寇が引き入れた倭寇の前進基地ともなった。

絶海の要衝

 中国明朝の鄭若曽が1562年(永禄五年)に著した『籌海図編』によれば、浯嶼にはもともと水塞が設置されていた。そこは大小の険しい島々が控えた絶海にあり、月港の奸民をおさえる要衝であった。しかし、いつしか建議により浯嶼水塞は廈門に移転。その後は「番舶」(外国船)の密貿易拠点となったという(『籌海図編』巻4 福建事宜)。

 1547年(天文十六年)、仏郎機(ポルトガル)船が交易品とともに浯嶼に停泊し、漳州・泉州の商人と貿易したことが記録にみえる(崇禎『海登県志』巻5 賦役志2)。

双嶼壊滅後の密貿易拠点

 1548年(天文十七年)年四月、明朝艦隊の攻撃により浙江沖の一大密貿易拠点である双嶼が壊滅。残党は福建の浯嶼へ逃れたとされる(『籌海図編』巻5「浙江倭変紀」)。

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 同年五月、双嶼を逃れたポルトガル船団が浯嶼に来航した。この船団は大船5隻と哨戒船4隻からなり、大船には強力な仏郎機砲が搭載されていたという。九月には、双嶼の密貿易集団の頭目の一人だった許棟の船団が、温州近海で明軍の攻撃を逃れて南下し、浯嶼の密貿易拠点に合流した(『甓餘雑集』「六報閩海捷音事」)。

 ポルトガル私貿易商人のリーダーであったディオゴペレイラの船団も、インドから中国沿岸部に到達し、七月には広東方面から漳州湾の海門嶼に来航していた(「六報閩海捷音事」)。彼らも、許棟船団入港後、間もなく浯嶼に入ったとみられる。

明軍の追撃

 十月、浯嶼に集結した密貿易船団は明軍の包囲を受ける。十一月九日、明軍の攻撃が開始されたが、ポルトガル人や許棟の船団は、「大銃三十余個・中小の鳥銃」を多数放ち、山觜上から射石砲で砲撃するなどして明軍を撃退している(「六報閩海捷音事」)。

 1548年(天文十六年)末まで、ポルトガル船団は浯嶼において明軍と対峙しつづけた。その後、ディオゴペレイラは冬季の季節風によってマラッカに帰航。残った積荷を2隻のジャンクに移して、ランサロッテ・ペレイラとフェルナン・ボルジェスを船長として、浯嶼で越冬させることになった。

 翌1549年(天文十八年)正月、浯嶼に残留していたポルトガル船団は、明軍の包囲を破って、福建南端の銅山島へと南下。しかし二月十日に明軍に敗れ、ランサロッテら3名のポルトガル人のほか、16名の黒人、46名の「白黒異形、身材長大」の異民族ら多くの乗員が捕虜となった。また福建系密貿易者のリーダーであった李頭光ら112名の中国人も捕虜となっている(「六報閩海捷音事」)。

海寇の巣窟

 1550年代、浯嶼は謝策や洪廸珍、呉平ら海寇たちの拠点となり、倭寇の前進基地ともなった。1558年(永禄元年)冬、謝策と洪廸珍は倭寇を誘引し、三千人余*1で浯嶼に船泊。翌年正月に月港一帯を分掠して浯嶼に帰還したという(万暦『漳州府志』)。

 特に洪廸珍は、福建の海域に倭寇を引き込んだ張本人と明朝に認識されていた。洪廸珍は漳州出身で、倭寇頭目・王直とともに外国と密貿易を行っていた。王直の死後はその配下の倭寇を吸収し、南澳と浯嶼を拠点としたとされる(『明世宗実録』)。また1555年(弘治元年)頃から南澳を拠点に日本との密貿易を行い、巨万の富を得たともいう(康煕『海登県志』巻20 叢談志)。

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参考文献

  • 伊川健二 「16世紀前半における中国島嶼部交易の不安と安定」(鈴木英明 編 『中国社会研究叢書 21世紀「大国」の実態と展望7 東アジア海域から眺望する世界史―ネットワークと海域』 明石書店 2019)
  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)
  • 佐久間重雄 「中国嶺南海域の海寇と月港二十四将の反乱」(『日明関係史の研究』 吉川弘文館 1992)

漳州府図 籌海図編4(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:乾隆『海登県志』巻18寇乱の条は、ほぼ同内容だが、人数は二千人余としている。

双嶼 そうしょ

 浙江省寧波府の近海、舟山列島の六横島東岸の港町。同島は南シナ海から福建・広東沿岸を北上し、あるいは日本から東シナ海を渡って、寧波方面に向かう船舶が経由する水道上に位置する。中国有数の密貿易港として知られ、ヨーロッパの史料には「リャンポー(Liampo)」としてみえる。

密貿易拠点としての始まり

 後年に双嶼討伐を指揮した朱紈によれば、双嶼は元は国家の「棄地」ともいえる場所で、 久しく人も住まない状態だった。一方で、東西に山が向かい合い、南北に小山に隠された水路が通じ、その内側に外界から隔絶された20余里の広さの人目につかない湾がある理想的な密貿易港であったという(『甓餘雑集』)。

 双嶼における密貿易は、1526年(大永六年)に福建出身の鄧獠が、「番夷」(外国人)を誘引したことに始まるとされる(『日本一鑑』窮河話海 巻6「海市」「流通」)。広東に貿易に来た「西洋」*1の商船を、福建人は海滄・月港に導き、浙江人は双嶼に招いたともいう(『籌海図編』巻12開互市)。当初は福建の密貿易者の浙江方面における前進基地だったとみられる。 

 双嶼が密貿易拠点として台頭するのは、1540年(天文九年)に徽州出身の許棟兄弟が、マラッカ・パタニ方面から「仏郎機国夷人」(ポルトガル人)を引き込み、福建の李光頭などとともに密貿易を始めてからであったとみられる(『籌海図編』巻81「寇踪分合始末図譜」)。

日本銀貿易

 1544年(天文十三年)、日本の豊後大友氏が派遣した遣明船が、寧波への入港を拒否されて、双嶼の密貿易に加わった。翌1545年(天文十四年)には、許棟の配下であった王直が、大友氏の遣明船の帰国に同行して来日し、その帰途に博多の日本人を双嶼に引き込んでいる。

 この頃から、日本銀を求めて九州に渡航する中国人海商人も増加していった。双嶼が位置する舟山列島は、生糸・絹・綿布などの主要輸出品の生産中心地である江南デルタに近く、東シナ海を横断して九州に直行する航路の起点でもあった。

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 このため双嶼は、東南アジアから漳州を経て浙江にいたる、南海産品と中国商品の交易ルートと、浙江と九州を結ぶ、中国商品と日本銀の交易ルートが交差する結節点となる。1540年代には、双嶼は中国人・ポルトガル人・東南アジア人*2・日本人などが集結する、東シナ海域における最大の密貿易拠点となったとみられる*3

ポルトガル人の一大密貿易港

 アントニオ・カルヴァンの『新旧発見記』によれば、1542年(天文十一年)にポルトガル人の乗るジャンク船が、シャムのウディア(アユタヤ)市を出発した。目的地はリャンポー(双嶼)だったことが記されいる*4。既にポルトガル人の交易地として、リャンポー(双嶼)が認知されていたことがうかがえる。

 フェルナン・メンデス・ピントは『東洋遍歴記』の中で、リャンポー(双嶼)について、詳しく記している*5。町の人口は3000人で、1200人がポルトガル人、残りは様々な国のキリスト教徒であった。ポルトガル人女性や混血の女性と結婚している者も300人ほどいた。

 主要な交易品は日本の銀であり、どんな商品を日本に持って行っても、3〜4倍になって返ってきたという。町には陪席判事、裁判官、市参事会員などの役職が置かれ、役職は売買の対象だった。病院や慈善院もあり、その運営に毎年3万クルザド以上が費やされていたとしている。ピントは、リャンポー(双嶼)の町が、「インド」*6にある全ての町の中で最も立派で、富裕で、豊かであったと評価している。

明朝の警戒

 1546年(天文十五年)、許棟兄弟と「番人」(外国人)との間にトラブルが生じ、「番人」が中国の村を襲い略奪を働く事件が起こる。許棟・許梓の兄弟が「番人」の貨物を償却しなかったことに起因するという(『日本一鑑』窮河話海 巻6「海市」)。『日本一鑑』は、この騒動が「倭患始生」と朱紈による平定の起こりとしている。

 この「番人」は、『東洋遍歴記』において明朝の双嶼攻撃のきっかけを作った人物として描かれるポルトガル人のランサロッテ・ペレイラに比定される。ランサロッテは、双嶼におけるポルトガル人の4人の顔役*7の一人でもあった(『東洋遍歴記』)。

 1547年(天文十六年)、許棟兄弟が彭亨(パハン)国から誘引した「賊船」と一緒になって福建・浙江地方を荒し回っているとして、明朝では密貿易を厳重に取り締まる事になった。その指揮官として、同年七月に都御史の朱紈が浙江巡撫・福建軍務提督に任命された。

 この年、浙江の寧波・台州を数千人の「倭寇」が襲撃する事件が起こった。事件を調査した朱紈は、密貿易船の船主が全て貴官(身分の高い役人)や大姓(豪族)で、不当に高い値段で外国品を売って利を貪り、時に密貿易商人に対して代価を与えなかったために乱が起こったと指摘している(『明史』巻81)。

双嶼の壊滅

 朱紈は、福建海道副使の柯喬と福建都指揮僉事の盧鏜らを起用し、双嶼攻撃の準備を進めていた(『籌海図編』巻4「福建倭変紀」)。1548年(天文十七年)年四月、双嶼港口に集結した明朝艦隊による攻撃が行われ、明軍は捕縛・溺死者数百名の大勝を得た。盧鏜は入港して倭寇が建てた天妃宮や営房、戦艦を破壊。双嶼における倭寇の拠点はこれ以後無くなり、残党は福建の浯嶼へ逃れた。

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 朱紈は双嶼に防衛拠点を設けようとしたが、結局、閉港を決意。木石を集めて港口を塞ぎ、賊が再び入れないようにして、20年来の盗賊の拠点がはじめて空となった。五月二十五日のことであったという(『籌海図編』巻5「浙江倭変紀」)。

 なお、双嶼の閉港から40余日が経過した後でも、付近の海域を1日に1290余隻もの船が往来していたことが報告されている(『甓餘雑集』)。

双嶼壊滅後

 以後、翌1549年(天文十八年)二月にかけて、盧鏜や柯喬が率いる明軍は、浙江・福建の沿海に散会した密貿易船の追跡と掃討を続けた(『甓餘雑集』)。双嶼から逃れていたランサロッテ・ペレイラやフェルナン・ボルジェスガリオッテ・ペレイラマテウス・デ・ブリトらポルトガル人や、福建系密貿易者のリーダーであった李頭光らは、この作戦の中で捕縛されている。

 許棟の集団も壊滅したが、後にその集団は、許棟配下だった王直によって再編される。王直は舟山列島の烈港に新拠点を築き、勢力を拡大させていく。一方、ポルトガル勢力は広州沖の上川波白澳に拠点を移し、後にマカオ澳門)を得る。また密貿易を行う一方で、囚われたポルトガル人の釈放を明朝と交渉している。

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関連人物

関連交易品

参考文献

籌海図編3(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:中国の西南岸より南の諸地域を指す。シャムやチャンパなど。

*2:1547年、密貿易商人の林剪が、東南アジアの彭亨(パハン)から70余隻を率いて浙江海域に移り、許棟の勢力と合流した(『日本一鑑』窮河話海 巻6「流通」)。

*3:朱紈は、日本・ポルトガル(仏郎機)・彭亨(パハン)・シャム(暹羅)が双嶼に入港するようになり、中国の内地商人(姦民)との取引が恒常化していることを報告している(『甓餘雑集』)。

*4:なお、船は暴風の為に漂流し、北緯32度の地点で、ヨーロッパ人として初めて日本列島を見たとされる。

*5:ただし、メンデス・ピントの情報一般には、信憑性に疑問がある内容が混在している。このことは、ピントの存命中から指摘されている。

*6:この「インド」は、アフリカ東海岸からアジア沿海部を含む地理概念。

*7:『東洋遍歴記』で挙げられる4人の顔役は、マテウス・デ・ブリト、ランサロッテ・ペレイラジェロニモ・ド・レゴ、トリスタン・デ・ガである。このうち最も主要な位置にある人物として描かれるのはマテウス・デ・ブリトである。

海滄 かいそう

 中国福建・厦門湾北岸の港町。対岸の月港とならぶ密貿易港として知られた。

海外交易の拠点

 中国明朝の鄭若曽が1562年(永禄五年)に著した『籌海図編』によれば、「西洋」*1の商船が広東で貿易をしていたが、抽分*2の支払いを避け、かつ陸路の運搬をしなかった。そこで福建人は、これらの商船を海滄や月港へ導き、浙江人は双嶼へ招いたという(『籌海図編』巻12 開互市)。

 『福建通志』では、福建で番舶(外国船)と通じ、海路に通じ、操船が巧みだとする文脈で、梅嶺、龍渓、月港とともに海滄の名がみえる。また『籌海図編』には「海滄船」*3という、大福船よりも小型の船が紹介されている。海滄が海外交易の拠点であると同時に、造船も盛んであったことがうかがえる。

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明朝の海辺防衛

 1530年(享禄三年)、福建の巡撫都御史の胡璉は、海滄に安辺館を設け、通判一人を置いて監視にあたらせた(万暦『漳州府志』)。その役割は「違禁通番」(違法な海外交易)の監視であり(『籌海図編』巻4 福建倭変紀)、6年後の1536年(天文十五年)には150人の兵を置くことが提案される(『明世宗実録』)。しかし、海滄の人は悍譎であり、半年ごとの輪番で通判を置いたものの、上下に心なく、地方の海防の役には立たなかったと評価されている(『籌海図編』巻4 福建事宜)。

 明朝の海辺防衛の拠点は、後に海滄対岸の月港に移った。月港には1551年(天文二十年)に靖海館が設けられ、1563年(永禄六年)には海防館に改組されている(万暦『漳州府志』)。

参考文献

  • 伊川健二 「16世紀前半における中国島嶼部交易の不安と安定」(鈴木英明 編 『中国社会研究叢書 21世紀「大国」の実態と展望7 東アジア海域から眺望する世界史―ネットワークと海域』 明石書店 2019)

海滄船 籌海図編18(国立公文書館デジタルアーカイブ

開互市 籌海図編17(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:中国の西南岸より南の諸地域を指す。シャムやチャンパなど。

*2:抽分は都御史の陳金の題奏により1509年以降に広州で実施された制度。積載した貨物のうち3割を官府に納め、残りの対価を給付して官が収買する。

*3:海滄船は大福船よりも小型の船で、風が弱くても動くことができた。明海軍では、大福船を補助する船と位置付けられていた。

浪白澳 らんぱかう

 広州湾沖にあった浪白澳島の港町。上川(サンシャン)とともにポルトガル人の交易の拠点となった。浪白澳(ランパカウ)の地名は、1537年(天文六年)成立のガスパル・ヴィエガスの地図に「ラブパ(Labupa)」もしくは「ラブプス(Labups)」としてみえる。

東南アジア・中国・日本の結節点

 ポルトガル人のフェルナン・メンデス・ピントは、コーチシナからマラッカに戻る際、サンシャン(上川)でマラッカ行きの船を見つけられず、ランパカウ(浪白澳)に移動。同港には、マレー半島のパタニやルゴールから来たジャンク船2隻が停泊していたと記している(『東洋遍歴記』)。

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 ピントらは偶然ランパカウに入港してきた海賊船に同乗し、旅を続けようとした。しかし洋上で別の海賊に襲われたうえ、大嵐に遭ってしまい、琉球王国の島を経由して日本の種子島にたどり着いたという(『東洋遍歴記』)。

中国人との交易地

 1555年(天文二十四年)、ピントは、パタニから日本の豊後府内への航海の途中、七月二十日にサンシャン(上川)に寄港し、八月三日にランパカウ(浪白澳)へ立ち寄る。11月12日付の書簡で、そこはナヴィオ船の交易地だと説明している。

 『東洋遍歴記』でも、当時ポルトガル人はランパカウで中国人と交易していたとし、それはマカオポルトガル人に提供される1557年(弘治三年)まで続いたとする。一方で、以前のように産物が流通していなかったために、その航海期に日本行きの船がなかったともしている。

 同年秋、ドゥアルテ・ダ・ガマのナウ船が日本の平戸から豊富な荷を積んでランパカウ(浪白澳)に帰港。ピント一行の滞在時、ランパカウ(浪白澳)には有力なポルトガル海商であるディオゴペレイラやフランシスコ・トスカーノ、アントニオ・ペレイラが集まっていた。ディオゴはこの時、東南アジア・スンダ列島から来航しており、その船には8人の日本人が乗り組んでいたという。

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ポルトガル人の越冬地

 ピントに同行していたイエズス会インド準管区長メルチオール・ヌネス・バレトは、中国のポルトガル人とナヴィオ船の多くは、日本への渡航を意図しており、5月の季節風の時期を待ち、中国の海岸で越冬すると書簡に記している。

 ランパカウ(浪白澳)での越冬中、バレトらは越冬するポルトガル人等300人の為に教会を建設。インドや東南アジア出身の従僕をキリスト教に改宗し、ポルトガル人たちが連れていた外国人の女奴隷(マンセーバ)たちと別れさせ、或いは結婚させた。

 同時に、明軍による双嶼討伐で捕らえられたポルトガル人の解放交渉のため、商人ルイス・デ・アルメイダらとともに広州へ交渉に出向いている。アルメイダは明朝官憲からの信頼が厚いことにより、特別にバレトに同行することが許されたという。交渉の結果、数名のポルトガル人虜囚が1500パルダウ(1000両に相当)で身請けされ、解放された。保釈金は1555年当時、浪白澳周辺にいたポルトガル人たちから集められたものであった。

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 翌1556年(弘治二年)六月、ピント、バレトら一行*1は日本の豊後府内に向けてランパカウ(浪白澳)を出帆した。

参考文献

広東沿海郡県図 籌海図編3(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:他にジル・デ・ゴイス、ガスパル・ヴィレラ、エステヴァン・デ・ゴイスがいた。

上川 さんしぁん

 広州湾沖の西南に浮かぶ上川島の港町。浙江や漳州での通商に失敗したポルトガル人が、新たな交易拠点とした。ポルトガル人の日本渡航の際の中継港でもあった。

東南アジアと中国・日本を結ぶ交易港

 1549年(天文十八年)七月、マラッカから日本に向けて航海してたフランシスコ・ザビエルは、暴風雨に遭遇した後、「カントン」の港に滞在した。この港は上川と推定される。船長や船員は「カントン」での越冬を予定していたが、ザビエルは強行に反対。結局、船はチンチェオに寄港した後、八月十五日にザビエルは鹿児島への上陸を果たす。

 1551年(天文二十年)、ザビエルは日本での活動に区切りをつけ、インドのゴアに戻ることになった。フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』によれば、ザビエルはドゥアルテ・ダ・ガマの船に乗船し、十二月初め頃に豊後府内から出航。航海中、暴風雨に見舞われながらも、十二月三十日頃に「ポルトガル人による交易の行われていたサンシャン(上川)港」に到着している。

 ガマの船は嵐で船首材が破損した為、シャム(暹羅)で越冬して修理することになった。入港時、ポルトガル海商ディオゴペレイラが船長をしているナウ船が、東南アジア・スンダ列島から胡椒を積載して来航していた。

 ディオゴはザビエルと旧知の間であり、ザビエルの中国入国の為に、ポルトガルのインド副王使節を仕立てる計画に賛同し協力を申し出た。ザビエルはディオゴの船に乗り、マラッカを経由してインドのゴアに渡っている。

上川と中国本土

 1552年(天文二十一年)、ザビエルは中国布教の為、上川に入港*1。この地に滞在していた旧知のポルトガル商人ジョルジェ・アルヴァレスと再会している。アルヴァレスは以前と同じようにザビエルを援助し、ザビエル一行に二ヵ月半ほど宿を提供した後、マラッカへと出港していった。

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 ザビエルがこの地から発した書簡には、上川や中国について詳しく記されている。上川の港はカントン(広州)から30レグア(約168キロメートル)の地点にあり、同地から多くの商人が交易に訪れたという。

 ザビエルは中国本土に上陸すべく、彼らに同行を求めたが、中国明朝の総督への発覚を恐れて、協力する者はほとんどいなかった*2。ザビエルの周囲の人々も、中国には国王の入国許可証なしの入国を禁じる法があるので、総督によって拷問もしくは投獄される危険があると伝えている。

 ヨーロッパ側にも中国明朝の海禁法が認識されており、上川への滞在は黙認されていても、本土のカントン(広州)への上陸は厳禁であったことがうかがえる。

 結局、ザビエルは中国本土上陸を果たせないまま、同年十二月、上川で没した。遺体は他のポルトガル人と同様に上川の浜辺に埋葬されたが、後にマラッカを経由してインドのゴアに運ばれた(『東洋遍歴記』)。

ポルトガル人の広東交易認可

 1554年(天文二十三年)、上川に滞在していたレオネル・デ・ソウザは、1割*3の抽分の支払いを条件に広東での交易を許された。

 『日本一鑑』によれば、1554年に仏郎機国の夷船が広東の海上に来て、客綱を名乗る周鷹*4が、番夷とともに他国の名を詐称し、海道副使の汪柏を誑かし、通交の許可を得たという。また、周鷹は日本人にヨーロッパ人のような扮装をさせ、広東の街へ出没し、以後頻繁に来市するようになったとしている。

 1555年(天文二十四年)七月二十日、東南アジアのパタニから日本の豊後府内を目指していたメンデス・ピントが上川に寄港した。『東洋遍歴記』によると、ザビエルが当初埋葬されていた墓は、草木に覆われ、周りを囲っていた十字架の先しか見えなかったという。ピントらは墓を清め、立派な垣根を巡らし、新たな十字架を立てた。

 上川を出航したピントは、八月三日にランパカウ(浪白澳)に到着*5。ピントは、当時のポルトガル人はランパカウで中国人と交易をしていたと記している。この頃には、広州におけるポルトガルの拠点が、ランパカウ(浪白澳)およびマカオ澳門)に移りつつあったとみられる。

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参考文献

  • 伊川健二 「16世紀前半における中国島嶼部交易の不安と安定」(鈴木英明 編 『中国社会研究叢書 21世紀「大国」の実態と展望7 東アジア海域から眺望する世界史―ネットワークと海域』 明石書店 2019)
  • 岡美穂子 「南蛮貿易前史ーマラッカ以東ポルトガル人の私貿易活動」(『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』 東京大学出版 2010)
  • 岡美穂子 「南蛮貿易の起源ー個人海商たちの海」(『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』 東京大学出版 2010)
  • メンデス・ピント(岡村多希子 翻訳) 『東洋遍歴記 3 (東洋文庫0373) 』 平凡社  1980

坤輿万国全図 国立公文書館デジタルアーカイブ

 

*1:ディオゴペレイラは、マラッカの次期長官であるアルヴァロ・アタイーデ・ダ・ガマ(ヴァスコ・ダ・ガマの子)によってマラッカに抑留されていた。

*2:200クルザド払えば、小船でカントンへ連れて行くことを請け負う者もいた。マヌエル・デ・チャベスが脱獄した際に、彼を匿った人物だったという。またザビエルは、自身が所有する胡椒をカントンで売却することによる350クルザド以上の利益と引き換えに、カントンに同行することを打診中である、と別の書簡に記している。

*3:当初は2割といわれていたが、交渉の結果1割に落ち着いたという。広東での抽分比率は1508年には3割であったが、1517年には2割となって、それが常例となったという。

*4:この周鷹はレオネル・デ・ソウザと同一人物を指すとする説があるが、一方でポルトガル船に同乗していた中国人であるとする見方もある。

*5:『東洋遍歴記』では、ザビエルの墓を整備した翌朝に上川を出航したとしているが、1555年11月20日付マカオ発のメンデス・ピントの書簡では、8月3日にランパカウに到着したと記している。

陳 瑞 ちん ずい

 中国徽州出身の海商・方三橋の貿易船の乗員。1548年(天文十七年)五月、日本から明国に戻った際、明軍に捕縛された。船には中国人とともに20名の日本人が乗っており、ヨーロッパ人から奪った仏郎機砲などの火器も搭載されていた。

中国海商の日明往来

 1546年(天文十五年)七月、陳瑞は、浙江省沖の双嶼にて、徽州出身の方三橋の貿易船の乗員となった。1547年(天文十六年)十二月、陳瑞の乗る貿易船は日本に渡るが、難破して修復不能となってしまう。

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 そこで船主の方三橋は、日本の中型船を1隻チャーターし、翌1548年(天文十七年)四月八日に出航。十九日には舟山列島の烏沙門に着いたが、目的地の双嶼は明軍の攻撃で壊滅していた。五月二日、陳瑞は附近の島に上陸したところを、哨戒中の明軍兵士に捕縛された(『甓餘雑集』)。

方三橋の貿易船

 陳瑞の供述によれば、方三橋が雇った日本船には、徽州など中国人50名のほか、日本人20名が乗っており、倭刀(日本刀)や倭弓(日本弓)のほか、火薬2罐、小型の鉄製仏郎機砲4〜5門、鳥嘴銃(火縄銃)4〜5挺ほどを装備していたという。また、これらの火器は、「番人」(外国人)が先年に日本に渡航した際に、合戦して奪われたものだと述べている(『甓餘雑集』)。

 方三橋の船には中国人の他に多くの日本人も乗船しており、多くの火器も搭載していたことが分かる。また、日本において「番人」との武力紛争が生じ、その際に日本人が仏郎機砲や火縄銃を奪取していたこともうかがえる。この場合の「番人」とは、ヨーロッパ人を意味すると考えられる。

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日本で襲われるヨーロッパ人

 陳瑞が乗っていた方三橋の船の火器は、ヨーロッパ人から争奪されたものだった。ヨーロッパ人が日本で襲われた例はいくつかある。

 例えば1544年(天文十三年)、大隅国の小禰寝港で、ポルトガル人が乗る中国人のジャンク船が、100隻以上の別の中国ジャンク船の襲撃を受けて火砲や火縄銃で応戦。地元の領主一族である池端重尚が流れ弾で死亡する事件が起こっている(「池端文書」)。

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 フランシスコ・ザビエルも、1552年(天文二十一年)にインドのゴアのイエズス会士に送った書簡において、もしスペイン船が日本に来航すれば、日本人はたいそう貪欲なので身に付けている武器や衣類を奪うために、乗組員全員を殺害するだろう、と警告している*1

 実際に1561年(永禄四年)末には、薩摩半島西北の阿久根港に来航して越冬していたポルトガル商人のアフォンソ・ヴァスが、日本人海賊に殺害されている。阿久根港では海底からポルトガル製のファルカン砲(仏郎機砲の一種)が発見されており、海賊に襲撃されたヴァスの船から海中に投棄された可能性があるという。

参考文献

  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)

鳥嘴銃(鳥銃) 籌海図編19(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:ザビエルの協力者であったイエズス会士のフランシスコ・ペレスも、ポルトガル船が日本に渡航すれば、「ポルトガル人と日本人の間に争いが起こらないことは、ほとんどない」と述べている。