戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

神屋 運安 かみや ゆきやす

筑前博多の商人。官途名は主計頭。父は潤屋永富。子に次郎太郎、養子に神屋長秀(太郎左衛門)、婿に孫八郎がいる。なお、系図によっては神屋寿禎の兄とされるが、甥である可能性も指摘されている。

小田 藤右衛門尉 おだ とうえもんのじょう

筑前博多の商人。子に弥五郎。神屋寿禎の代官として石見銀山に派遣され、石見銀の買い付けを行った。後に天文十六年度遣明使節の一号船の船頭として入明したが、寧波にて死去した。

神屋 寿禎 かみや じゅてい

筑前博多の商人。石見銀山の開発と石見銀の貿易に関わったといわれる。妻は妙栄。子に三正(聖福寺龍華庵の庵主)、小四郎、宗浙、宗白らがいる。戦国末期の博多の豪商・神屋宗湛は寿禎の曽孫にあたる。

無人島(小笠原島) ぶにんじま

現在の東京都区部から南南東約1000キロメートルの太平洋上にある島嶼。江戸期の17世紀後半、漂流船の帰還を契機として日本で存在が知られるようになった。延宝三年(1675)、幕府は大型の「唐船造之御船」を派遣して調査を行い、調査隊により様々…

陳 仏奴 ちん ぶつど

中国明朝の浙江出身の人物。対馬の時羅が浙江を襲撃した際に夫の符旭とともに掠われ、時羅の妻とされたという。時羅が朝鮮を訪れた際に、同国の官人に救出され、明朝に送還された。

被虜唐僧 ひりょとうそう

応永二十七年(1420)に朝鮮の日本回礼使・宋希璟が対馬で出会った僧体の人物。希璟は詩の中で彼を「被虜唐僧」と呼んでいる。中国(明朝)台州の軍官であったという。倭寇の捕虜となり、対馬の海民のもとで使役されていた。

ひこ五郎の女房 ひこごろう の にょうぼう

対馬島北部東岸の早留浦の百姓。応永十一年(1404)、「かきつめ」(海女)であったことが「対馬番家文書」にみえる。海女もまた、公事を納める百姓(公事足百姓)として対馬島主・宗氏に掌握されていたと考えられている。