戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ビヤマグ(肥前) Beer mug

 ビヤマグとは、ビールを飲むために作られた、円筒形で把手(取っ手)のついた器を指す。17世紀以前のヨーロッパでは、ビールを飲む際に炻器や金属器のビヤマグが使われていた。17世紀後半、肥前磁器によるビヤマグが日本からヨーロッパに輸出された。

肥前磁器のビヤマグ

 佐賀県立九州陶磁文化館所蔵の肥前磁器「染付山水唐人文水注」は、把手付の瓶で、ビヤマグと考えられている。このような形はドイツのライン炻器*1や金属器に原型が求められるという。把手の上部には金属製の蓋とつなげるための孔が一つあけられており、蓋を付けて使用したものと考えられている。

ビヤマグの海外輸出

 1661年(寛文元年)、1,100個の日本製ビヤマグと日本製の大きなカップ5,900個を積んだ中国船が、ベトナムの交趾(キナム)経由でバダヴィアに到着している。バダヴィアは東南アジアにおけるオランダの拠点であった。

 オランダの記録では、1662年(寛文二年)、オランダ本国向けに「ビール・ジョッキ計346個」として「染付272個、色絵(金・銀彩)74個」が運ばれた。また同じくオランダ本国向けとして1673年(延宝元年)に「ビール・ジョッキ1,000個、ワイン・ジョッキ1000個」、1677年(延宝五年)には「ビール・ジョッキ(大小)952個、ワイン・ジョッキ(大小)952個」があった。

 ビールはワインに比べて庶民の飲み物だったが、肥前磁器のビヤマグは上流階層が使う高級品だったと考えられる。1681年(天和元年)の銀蓋付の肥前染付手付水注を代表として、1660~1680年代頃の染付や色絵のビヤマグと思われる例は少なくない。

ビールと日本

 ビールは、17世紀初めにはオランダやイギリスといった北ヨーロッパ諸国によって日本に持ち込まれていた。慶長十八年(1613)、平戸に入港したイギリス船が、オランダ人に色々なしきたりを教えてもらった礼として、ビールを贈ったことが『大日本史料』にみえる。

 しかし日本人がビールを知るのは、さらに後だったとみられる。享保九年(1724)、江戸へオランダ人が参府した際の史料に「麦酒を試してみたところ、殊の外味が悪く何の味わいもない」とある。享保十五年(1730)には、将軍徳川吉宗がオランダ人に「和蘭麦酒」を所望している。

 寛政十一年(1799)の『蘭説弁惑』には、「"びいる"といって麦で作った酒がある。食後に用いるもので飲食の消化を助けるという」と記されている。

参考文献

  • 大橋康二 『歴史ライブラリー177 海を渡った陶磁器』 吉川弘文館 2004
  • 岡地智子・福田浩子・山下寿水 編 『はるかなる古伊万里 400年の物語』 広島県立美術館 2021
  • 江後迪子 『南蛮から来た食文化』 弦書房 2004

*1:ドイツのラインラント諸都市で作られた塩釉炻器(塩によって施釉する炻器)。

チョコレートカップ(肥前) chocolate cup

 17世紀後半、肥前ではオランダからの注文を受けて多くの磁器が生産され、海外に輸出された。その中にはチョコレートを飲むためのカップ、すなわちチョコレートカップがあった。

ヨーロッパでのチョコレート普及

 チョコレートはカカオから作られた飲み物であり、南アメリカにルーツがある。ヨーロッパでは、当初は「人間よりは豚に相応しい飲み物」(『新世界の歴史』1575年)ともみなされていた。

 しかし、シナモンなどの香辛料や砂糖と組み合わせることで、しだいに飲用が普及。この過程で、(理由は不明ながら)背の高いカップがチョコレート飲用のカップとして選ばれるようになった。

 ヨーロッパでチョコレートの飲用習慣が広がると、絵画等にチョコレートカップが描かれるようになる。1652年(承応元年)のアントニオ・ペレーダ・イ・サルガドの絵には、銀皿の上に置かれたチョコレートカップが描かれている。

肥前でのチョコレートカップ生産

 1641年(寛永十八年)にカリブ海のドミニカ沖で沈んだコンセプシオン号の積荷の中に、中国磁器のチョコレートカップとみられるものが含まれていた。このことから、1640年代頃には中国の景徳鎮等で生産が行われていたとみられる。しかし1644年(寛永二十一年)の明朝滅亡とその後の混乱で磁器輸出が激減。代わって肥前の磁器(伊万里焼)が、オランダや中国商人によって輸出されるようになる。

 肥前でのチョコレートカップ生産は、1659年(万治二年)のオランダによる大量注文以降とみられる。この時の注文内容には、日本の生活様式にはないものが含まれており、手本付きの注文生産が行われたと考えられている。

 長崎商館長ヘンドリック・インダイク発行の送り状によれば、1662年(寛文二年)に輸出された86,329個の磁器の中に「hooge copiens」250個があった。hoogeとは、腰高、背が高いという意味であり、hooge copiensはチョコレートカップを指す可能性があるという。1663年(寛文三年)、バダヴィアの注文によって船に積み込まれた磁器の中に、diepe copiens「深いカップ」1000個とあるものも可能性があるとされる。

 17世紀後半のチョコレートカップは、有田の赤絵町遺跡からも出土している。有田の内山地区で生産されたものとみられている。同遺跡からは18世紀前半の色絵チョコレートカップもみつかっている。受皿と組になっており、また蓋がつくものもあった。

海外出土の肥前製チョコレートカップ

 肥前製のチョコレートカップは、世界各地の遺跡で出土例がある。ヨーロッパでは、スペインのカディス肥前の染付チョコレートカップが出土している。1641年(寛永十八年)のコンセプシオン号の目的地はスペイン本国であり、スペインではチョコレートカップの需要があった可能性は高い。

 その他にも、東南アジアのフィリピン・マニラ、新大陸のメキシコ*1グアテマラ*2キューバ*3、ペルー*4の遺跡から肥前磁器の染付や色絵、瑠璃釉金彩のチョコレートカップの出土が確認されている*5。いずれもスペインのガレオン貿易のルート上に位置している。

チョコレートと日本

 一方、日本で最も古いチョコレートの記録は、寛政九年(1797)に廣川獬が著した『長崎見聞録』にみられる「しよくらとを」とされる。廣川は同書の中で「しよくらとをハ、紅目人持渡る腎薬にて、形獣角のごとく、色阿仙薬に似たり。其味ひは淡なり。其製は分暁ならざるなり。服用先熱湯を拵へ、さてかのしよくらとを三分を削り入れ、次に鶏子一箇、砂糖少し。此三味茶筅にて、茶をたつるごとく、よくよく調和すれは、蟹眼出る也。是を服すべし」と記している。

 チョコレートは、オランダ人によって長崎にもたらされていた。当時は、熱湯に入れて泡立てて、砂糖などを入れて飲まれていたことが分かる。また薬として認識されていたこともうかがえる。

参考文献

  • 野上建紀「太平洋を渡ったチョコレートカップ」(鈴木英明 編 『中国社会研究叢書 21世紀「大国」の実態と展望7 東アジア海域から眺望する世界史―ネットワークと海域』 明石書店 2019)

*1:中南米で最も数多くチョコレートカップが出土している都市がメキシコシティ。最も多くの肥前のチョコレートカップが出土している遺跡が、オアハカサント・ドミンゴ修道院遺跡。

*2:グアテマラでは、アンティグアのサント・ドミンゴ修道院遺跡などの各遺跡から17世紀後半の肥前の染付、色絵、瑠璃釉色絵チョコレートカップが出土している。

*3:ハバナの旧市街の遺跡から肥前の染付チョコレートカップが出土している。

*4:リマ市内のボデガ・イ・クアドラ遺跡など各遺跡から17世紀後半の肥前の染付チョコレートカップが出土している。

*5:これらの遺跡からは、肥前磁器だけでなく、17世紀中頃および17世紀末から18世紀前半の景徳鎮や徳化窯系の染付・色絵チョコレートカップも出土している。

ムハンマド・シャー Muhanmad Shah

 中国南宋港湾都市泉州にて1272年(文永九年)に没した人物。ホラズム出身の王族であったとされる。

泉州モスクのアラビア語墓碑

 1272年(文永九年)四月五日、中国南宋港湾都市泉州において、あるムスリムの貴人が没した。泉州元朝支配下に入る4年前のことだった。

 泉州清浄寺内には、その没年を刻むアラビア語墓碑が保管されており、墓碑には次のように刻まれている。

殉教者、異邦人、フワーリズム出身のシャーの子息、ムハンマド・シャーの墓なり。神の御慈悲のもとへ。神よ、彼、並びに敬虔なる男女たち[の罪]を赦し給え。

 この碑文の中のフワーリズム(ホラズム)出身のシャーとは、ホラズム・シャー朝の王族の子孫の一人であることを示している。最後のホラズム・シャー朝のスルタンとなったジャラール・ウッディーンは、1231年(寛喜三年)八月に北イラクのアーミド郊外でクルド人に殺害されたと伝えられている。

 それから半世紀ほど後に、ホラズム・シャー朝の王族の一人がはるばる中国まで逃れて、泉州で他界したことになる。あるいは生死不明となったジャラール・ウッディーン・マングビルティーその人である可能性もゼロでは無いとされる。

 なおこの墓碑は元来、泉州東郊の霊山にあるムスリム聖人墓地にあったといい、特別な崇拝を受けていた可能性があるという。

ホラズム・シャー朝遺民の中国来住

 ホラズム・シャー朝の由来となった狭義のホラズムは、西トルキスタンにあって、アム河の下流アラル海の南岸の現ウズベキスタンのホラズム州を中心とする地方を指す。この地域の出身者、つまり狭義のホラズム人たちは高度な文化・経済水準を誇り、また偉大な旅人でもあり、商人として南ロシアからドナウ河流域まで幅広い地域で活躍した。

 中国沿岸部では、ムハンマド・シャーのような外来系ムスリムたちの来歴と没年を記したアラビア語銘文をもつ墓石が多数発見されている。このうち、狭義のホラズム出身者は泉州に1件、福州に1件ある。さらに旧ホラズム・シャー朝領のイラン・トランスオクシアナの地名のものは、全体のほぼ半数を占めている(32件のうち17件)。それらのほとんどが、モンゴル帝国元朝期に該当する。

 このことは、旧ホラズム・シャー朝の遺民たちが中国沿岸部のムスリム共同体のなかで、重要な位置を占めていたことをうかがわせる。彼らが、ホラズム・シャー朝の王族の墓を崇拝したのは、高貴な血筋のため、というよりも、その死の悲劇性や異邦人としての死という点に殉教性が見い出されたため、ともされる。

参考文献

鯨(長門) くじら

 長門国日本海沿岸には鯨の漂着が時々あり、食用だけでなく鯨油も使用された。鯨は貴重な資源であり、権利をめぐって地域間の争論も発生した。

寄鯨の取扱い

 長門国において鯨は古くから利用されてきた。下関市豊北町の二刀遺跡では、弥生~中世の遺物包含層から中~大型のクジラ類と思われる動物骨2点が検出されている。そのうち、1点は人為的に砕かれた可能性があるという。

 中世には、「寄鯨」(岸に漂着した鯨)が貴重な資源とされていた。永享三年(1431)、「寄鯨」の帰属をめぐって阿武郡奈古村と大井村の村民が争論を起こし、大内氏がこれを裁定した記事が『大津郡誌』にあるとされる。また永禄十一年(1568)三月、豊浦郡吉母と室津の境目に鯨が漂着した際には、この鯨をめぐって両所の給人が争論におよんでいる(「住吉神社文書」)。

 大津郡三隅のうち沢江浦にも寄鯨があり、給人と推測される相良氏が、毛利氏の直轄領であった通浦に断りのうえ、鯨を処理していた(『防長風土注進案』)。近世には、通浦のみが沖で鯨漁を行う権利をもっており、中世末期においても通浦の権利の強さがうかがわれる。

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鯨の利用

  天正二十年(1592)十一月、毛利氏奉行人・佐世元嘉は大津郡大日比浦に対し、大魚(鯨)を取った場合は、対価を遣わすので油は毛利氏に渡すべきことを命じている(「上利家文書」)。

 天文十八年(1549)、毛利元就大内義隆を表敬訪問し、周防山口に滞在した。その際の三月二十三日の饗応の献立に「鮭鯨」がみえる(「元就公山口御下向之節饗応次第」)。ただし、どのような料理であったかは分からない。毛利家臣・玉木吉保は、元和三年(1617)に著した覚書『身自鏡』に自身の料理レシピを載せていて、その中に鯨汁と(鯨の)刺身も記している。

参考文献

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近世、長門捕鯨基地となった通浦の遠景

鯔(周防) ぼら

 ボラ目・ボラ科に分類される魚の一種。中世、周防の特産品であり、船で畿内にも運ばれた。

熊毛郡室積浦の鯔漁

 大永六年(1526)八月、朝大野家次は「室積ないしあミ本山高へ(部)」を900文で東浜四郎兵衛に売却している(「秋光家文書」)。高部は鯔敷網の網主を意味する。鯔敷網には前網と中網があり、前網は室積の早長八幡宮の鎮座後まもなく始まったと伝えられている(『防長風土注進案』)。

 また永禄十三年(1570)十二月、江原与三郎は「当見役」を五貫文で植松藤四郎に売り渡している*1(「秋光家文書」)。「当見役」は江戸期の高見役に相当すると推測される。

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 同じ熊毛郡では、伊保庄阿月の鯔漁は文禄年間(1592~96)の開始と伝えられている(『防長風土注進案』)。中世後期に瀬戸内海では、網による鯔漁が盛んであったことが分かる。

鯔の流通と利用

  文安二年(1445)、3隻の上関船が鯔42駄を兵庫に輸送している(『兵庫北関入舩納帳』)。

 一方で周防国内であれば、刺身として食べられることもあった。明応九年(1500)三月五日、周防山口の大内氏館を足利義稙が訪れた際の宴会料理に「さしみ名吉」がみえる(『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』)。名吉は鰡の幼魚。当時の刺身は、酢で食べるのが一般的だった。

参考文献

  • 山口県 編 『山口県史 通史編 中世』 山口県 2012
  • 北島大輔「大内氏は何を食べたか−食材としての動物利用−」(小野正敏・五味文彦・萩原三雄 編 『考古学と中世史研究6 動物と中世−獲る・使う・食らう−』 高志書院 2009)
  • 江後迪子 『信長のおもてなし 中世食べもの百科』 吉川弘文間 2007
  • 山口県 編 『山口県史 史料編 中世2』 山口県 2001

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鯔 from 写真AC

*1:併せて、「天下一同之御徳政」が行われたとしても、返還に同意しないことを約束している。

泉 大官 せん たいかん

 毛利氏に仕えた医師。朝鮮半島出身と推定される。出雲国に渡来して毛利元就に仕えたという。

毛利元就に仕える

 上関小泉家の家伝によると、泉大官は「唐医」であったという。「大官」は朝鮮李朝の地方郷紳の称号のようなもので、「泉大官」は朝鮮の医術を心得た在地有力者であったと考えられている。

 家伝によれば、大官は天文年間に出雲国に着岸した(『閥閲録』巻166)。当時、尼子氏が籠城していたというから、天文十二年(1543)頃だろう。その折、城攻めに参陣していた毛利元就の体調が悪化したため陣中に召し出され、脈診のうえ医術を施したところ快復したという。この功により領地を与えられ、芸州城下に移って毛利氏に仕えたとされる。

小早川隆景の書状

 大官は以後も、医術による手柄をたてたという。年未詳八月十七日、小早川隆景は大官に宛て、「御局方」の気相(病気)の治療について、緩み無く専念するよう伝えている(「上関小泉家文書」)。

大官の子孫

 その後、大官は安芸国で死去した。玄甫という子がいたが、幼少であった為に領地は召し上げられた。玄甫とその子・宗古は、二代に渡って牢人のまま死去。道宅の代に毛利家の寺社組の医役を務めたが、実子が無く跡職は断絶した。このため道宅の養子で上関宰判医師でもあった小泉玄賀が、御雇いで医役を務めるにいたったという。

 江戸期、上関は朝鮮通信使の寄港地となっており、小泉玄賀の子孫たちも迎接にあたっている。

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参考文献

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上関の町。大官の文書と由緒は、上関小泉家によって伝えられた。

杉 重忠 すぎ しげただ

 大内家臣。仮名は新四郎。官途名は大蔵丞。父は杉長忠か。筑前国那珂西郷を知行した。

筥崎宮との確執

 天文十一年(1542)以前*1の十二月六日、杉興重、吉田興種、貫武助ら大内氏奉行人が、筥崎大宮司に対して「無勿体」(とんでもないことだ)と、非難する文書を送った。杉新四郎の知行する「博多外石堂」を、筥崎宮が他所に売却しようとしており、「本家」(石清水八幡宮)が補任していることを挙げ、不可であるとしている(「田村文書」)。当時、筥崎宮社領を売却して、購入者を代官職に補任していたらしい。

 杉新四郎の「博多外石堂」とは、大永三年(1523)二月に、杉長忠が大内義興から与えられた屋敷地と同じ場所*2と考えられる。この時長忠は、筥崎宮領であった筑前国那珂西郷内20町地(石清水社領)と屋敷一所(石堂外、号今畠)の知行を、石清水八幡宮からの代官職補任という形で獲得している(「石清水文書」)。なお長忠の代でも、那珂西郷をめぐって筥崎宮との対立があった。

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 この杉新四郎は、天文十三年(1544)四月二日付の「杉重忠書状」(「石清水文書」)にみえる杉大蔵丞重忠と同一人物とみられる。重忠は行吉生信に対し、自身が知行する那珂西郷20町地の正税と運賃は、毎年厳重に納めてきたと伝えている。杉長忠の活動は享禄二年(1529)まで確認できるので、これ以降に家督は重忠に譲られたと考えられる。

天文八年度遣明使節との関わり

 天文七年(1538)七月一日、大内氏経営の遣明船は、五島奈留浦から博多に回航。風待ちの後、天文八年(1539)三月五日に再び博多を出発する。この間、遣明使節の副使・策彦周良は、博多龍華庵に滞在し、遣明使節メンバーをはじめ多くの人物と交流を持った。そんな中の十月一日午後、策彦は扇2本を携えて杉新四郎の旅屋を訪ね、礼を構じている(『初渡集』)。杉新四郎は重忠に比定できる。

 後の天文十六年度遣明使節において、「杉大蔵丞」が一号船の副土官としてみえ(『大明譜』)、重忠の跡を継いだ杉大蔵丞隆宗に比定されている。天文八年度遣明使節について、重忠も何らかの形で関わっていた可能性は高いと思われる。

大蔵丞隆宗と新四郎英勝

 先述の杉大蔵丞隆宗は、天文十五年(1546)度から天文十七年(1548)度の3か年に、筥崎宮領那珂西郷の正税米5石を、行吉生信を通じて毎年石清水八幡宮に納めている(「石清水文書」)。家督が、重忠から隆宗に移っていることが分かる*3。なお隆宗は、天文十六年度船の副土官として中国明朝に渡るが、寧波に入ることが出来ないまま、嶴山島で客死した(『大明譜』)。

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 隆宗の跡は、杉新四郎英勝が継いだ(『閥閲録』巻160-2)。重忠または隆宗の子にあたると推定される。

参考文献

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マンハッタン? 実は福岡市博多区を流れる御笠川の夕景です。 from 写真AC

*1:この史料には門司飛騨守(依親)が登場する。天文十二年十月、依親の所帯を孫の門司泰親が相続することについて、大内義隆が承認している(『閥閲録』巻170)。これ以前のことと考えられる。

*2:長忠の時は「石堂外、号今畠」と記されている。博多内の地名で、具体的には石堂口すなわち石堂川御笠川)沿いの地域であったと考えられている。

*3:重忠が改名して隆宗となった可能性について、指摘をいただいた。「平朝臣隆宗」(「平」は杉氏の本姓)は、天文六年から筥崎宮に関連した活動が史料上確認できるが、同時代に杉兵庫助隆宗という人物もおり(『閥閲録』巻113)、彼の事績である可能性も否定できない。