戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ライン ワイン Rhein wein

 ドイツのライン川流域で生産されたワイン。ドイツ北部沿岸地域や中部ドイツ都市では、ラインワインが最も一般的なワインであった。なお現フランス領のアルザス地域で生産されるワインはアルザスワインとして区別されたが、地域によってはラインワインとして扱われていたという。

ライン川流域のワイン

 オーバーアルザスからミッテルライン北部にかけてのライン川流域及びマイン、ナーエ、モーゼル、アールの各支流流域に広がる葡萄栽培地域*1で生産されたワインは、いわゆるラインワイン、アルザスワインとして扱われた。

 その大部分はケルンを最大の集散地としており、同都市にはライン川上流方面からラインとアルザス双方のワインが搬入されていた。なお中世のケルンでラインワインの生産地として認識されていたのは、ミッテルライン、モーゼル、ナーエ、ベルクシュトラッセ、マインの各ワイン生産地であったという。

 ラインワインとアルザスワインの生産地域とは、はっきりと区別されていた。しかしライン川下流のニーダーラインや低地地方では両者の区別はなされず、双方ともにラインワインとして扱われていたという。このため、ラインワインの中心的な流通地域でラインワインとアルザスワインとを区別して見ていくことは難しいとされる。

ワイン集散地ケルン

 ケルンはラインおよびアルザスのワインの集散地であった。同都市へのワインの搬入量は、1415年(応永二十二年)は30800フーダー、1420年(応永二十七年)には27650フーダーであったとされる。なお、ケルンにおいてもラインワインとアルザスワインの区別はされていなかった。

 毎年秋になると新酒を積んだ多くの船がケルンに入港し、その数は、14世紀中頃第四四半期では平均すると年約370隻、1391年(明徳二年)には800隻におよんだ。ワインはケルンまでライン川中流を航行するオーバーレンダー船で運ばれた。さらに低地地方などライン川下流方面へ再輸出されるときは低地向けのニーダーレンダー船で運ばれた。

 ケルンのワイン商人は、生産地に大抵仲介・代理人*2を置いていた。彼らを通じていち早くその年の収穫量、葡萄の質に関する情報を入手し、必要な場合には、初物の仕入れに参加させたり仮契約を締結させたりした。このように確実な情報を素早く入手し、いち早く市況に適応することが出来たことがケルンのワイン商人の躍進に繋がったという。また12世紀を境として、ケルン商人はフランドルやブラバントにもワインを供給するようになったとされる。

 ラインワインはライン川上流方面にも流通し、14世紀末のニュルンベルク、1420年(応永二十七年)のアウグスブルクなどで記録が残る。しかし圧倒的部分はライン川を下り、ケルンを主要な集散地としてドイツ中部、北部で、そして低地地方の商業都市を経てハンザ商業圏の中で広く流通していたと考えられている。15世紀になると、ケルンは「ハンザのワイン貯蔵庫」として、ハンザ商業圏に向けたワインの一大供給地となる。

ワインの販売市場

 低地地方では、この地域の国際商業の中心都市ブリュージュのみならず、ブリュッセル、ルーヴァンもケルンのワイン商人の重要な販売市場だった。さらに、カンペン、ドルトレヒト等の低地地方東部の港湾都市は、ケルン商人の扱うワインの船積み港として重要であり、ラインワインはこれらの港からイングランドバルト海沿岸各地に送り出されていった。

 北海方面では、ケルン商人はイングランドで既に1175年(安元元年)頃にフランス人と同じ条件でワインを販売する権利を国王特権により認められていた。しかし15世紀までには、フランス産のワインがドイツワインに代わって飲まれるようになっていった*3

 北海東部では、ハンブルクがケルン商人にとっての重要なワイン販売市場であった。ハンブルクはまた、バルト海沿岸の港湾都市リューベックに向けての発送の拠点でもあり*4、それゆえ中世後期では、バルト海、スカンディナヴィアの各地へもたらされたラインワインの多くは、リューベックから再度船積みされて送り出されたものだった。

バルト海におけるラインワイン

 バルト海地域でも、ニーダーラインや低地地方と同様に、ラインワインとアルザスワインを合わせてラインワインとされていた。1380年(康暦二年)以前のハンザ都市で扱われていた無銘柄のワインは、全てラインワインだったと考えられている。

 15世紀末のリューベックの関税台帳を見ると、リューベックからバルト海各地へ向けての無銘柄のワイン(すなわちラインワイン)の流れを確認することが出来る。なかでもダンツィヒ、リガ、レヴァル、ストックホルムなど拠点性の強い港湾都市に向けては、1492年(明応元年)から1496年(明応五年)にかけて南方産(ギリシャ産や北イタリア産)、西方産*5ワインと共に無銘柄のワイン(ラインワイン)が毎年のようにリューベックから輸出されていた。

 ワインの流れは輸入側からも確認できる。14世紀中頃から1472年(文明四年)にかけてのリガの都市参事会が調達したワインのリストには、一貫してラインワインが記録されている*6。1432年(永享四年)から1507年(永正四年)にかけて、レヴァルの都市参事会が調達したワインの中でも、ラインワインは南方産ワインのロマーニャとともに継続的に記録されていた。

 これに対し、フランケンワインなど高地ドイツ産のワインは、リガやレヴァルでは見られなかったという。

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参考文献

  • 谷澤毅 「中世後期ドイツにおけるワインの流通」(『長崎県立大学論集 第34巻第4号』 2001)

ブドウ畑とライン川リューデスハイム) from 写真AC

*1:ライン川流域の葡萄栽培は、一時、アイフェル、ユリッヒ、アーヘン等の諸地域まで拡大していた。

*2:多くは樽職人、輸送業者、宿屋または血縁関係者。

*3:大陸側のガスコーニュアキテーヌといったワイン生産地域が、かつてイングランド領であったという事情も背景にあったという。

*4:15世紀以降、オランダの船舶がバルト海に進出してくる以前には、一般にハンブルクからリューベックに通じる内陸路がバルト海・北海間の動脈として利用されていた。

*5:フランス、スペイン、ポルトガルといった大西洋沿岸地域から輸入されたワイン。

*6:この記録での南方産ワインの登場は、ロマーニャが1422年(応永二十九年)、マルヴァジアが1431年(永享三年)以降であり、ラインワインよりも遅れている。

フランケン ワイン Franken wein

 ドイツのフランケン地方(ドイツ中南部から南ドイツの北部)で生産されたワイン。ただしフランケンワインの名称は、生産地域から葡萄品種、そして品質を示すものへと語義が変化していったという。

名称と生産地域

 タウバーワインと称される一連のワインの名称が指す範囲と、フランケンワインという名称が当てはまる範囲は、実際には曖昧であるという。ネルトリンゲンの15世紀中頃の記録では、タウバーワインの名称が用いられていたが、1476年(文明八年)以降になるとタウバーの名称がフランケンに置き換えられている。ここから、タウバーワインがフランケンワインとして扱われていた事例を見て取ることができる。

 またフランケンワインは、しばしばヴュルツブルクワインとして記録された。これはヴュルツブルクがフランケン産ワインの中心的集散地であったことによる。一方でヴュルツブルクでは自らの領域外で作られたワインは全て外来ワインとみなす傾向があり、1475/1478年(文明十年)の輸入禁止令ではタウバーワインを外来ワインとして扱っている。

 なおフランケンワインの母体となる葡萄の栽培は、ネッカー、ラーン、中部ライン、モーゼル、ナーエの各河川へと広がり、後者3河川で生産されたワインはラインワインとして販売されたという。

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フランケンワインの流通

 フランケンワインの輸出は、ヴュルツブルク商人が担っていたが、14世紀後半には彼らの手を離れ、ケルン、低地地方、ニュルンベルクボヘミアの人々の手に移ったとみられている。そしてその販路は、生産地域から見て主に北から南東方向に向けて広がっていた。

 フランケン地方から北に向けては、ワインの搬送に用いられた古くからの通商路があり、シュヴァインフルトからコーブルク方面、レムリンゲンないしミッテンブルクからフルダ方面へと経路が延びていた。

 コーブルクでは、アルテンブルクからの商人がここでフランケンワインを仕入れたほか、さらに北のアイゼナハ、エルフルト、ミュールハウゼン等といった都市でも、14世紀中頃までにフランケン産が記録されるようになっていた。

ニュルンベルクからの販路

 バイエルンの大都市ニュルンベルクは、フランケンワインの最大の調達地であった。ヴュルツブルク等からニュルンベルクへ送られたワインは、同市内で大量に消費され、その量は租税(Ungeld)の徴収額から換算して、1470年には13400ヘクトリットル、1471年(文明三年)には17830ヘクトリットルに達していた。

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 ニュルンベルクからは、北方のフライベルクライプツィヒ等のザクセン方面に販路が開けていたほか、ボヘミア方面への経路もあった。ツヴィッカウやケムニッツなどでもフランケンワインの記録があるが*1、フランクフルト・アン・デア・オーダーといったドイツ東部の都市やシュレージェン方面では東欧産ワインとの競争に晒され、チェコ国境に近いゲルリッツでもアルザス産や南方産(ギリシャ産や北イタリア産)と競合関係がみられたという。

 ニュルンベルクから南では、ネルトリンゲン経由でアウグスブルクへの販路があった。南東方向では、ランツフート等のニーダーバイエルン諸都市およびザルツブルクでフランケンワインが見られ*2ニュルンベルクからのものと考えられている。ただしオーバーバイエルンにまでは、フランケンワインは達していなかった。

ドイツ北部・西部における流通

 フランケンワインは一部のドイツ北部の沿岸都市へも達していた。リューベックでは、1504年(永正元年)のワイン貯蔵規定においてフランケンワインに対して独自のアクチーゼ税率が定められていた。またフーズムでは、1461年(寛正元年)のアムステルダム商人向け関税表の中で同ワインが言及されていた。しかしドイツ北部でのフランケンワインの流通は地域が限られていて、記録された都市も少ないという。

 ライン川水系のドイツ西部においては、1395年(応永二年)に初めてフランクフルト大市でフランケンワインが現れる。しかしこの方面での記録も僅かであった。ドイツ北部および西部は、ラインワインの中心的な販売市場であった。

参考文献

  • 谷澤毅 「中世後期ドイツにおけるワインの流通」(『長崎県立大学論集 第34巻第4号』 2001)

ドイツ・フランケン白ワイン from 写真AC

*1:1502ー1512年のツヴィッカウの護衛記録には各ワインを積んだ車両の数が見える。これによれば、ラインワインが199両、フランケンワインが145両、ザーレワインが66両であった。

*2:ブルクハウゼンにおける1476年のバイエルン宮廷の調達記録によれば、オスターワインが2976アイマー、フランケンワインが276アイマー、チロル産ヘップワインが36アイマー、ラインファールが58アイマー、マルヴァジアが10アイマーがそれぞれ挙げられている。東方のオスターワインが圧倒的に多いことが分かる。

伊尾 いお

 備後国世羅郡大田庄桑原郷の集落。現在の広島県世羅郡世羅町伊尾。初期の大田庄の開発を担った橘氏、および鎌倉初期に地頭となった三善氏の本拠地となった。戦国期は尾首城主であった湯浅氏の本拠となり、同氏によって大通、近森の両地区の開発が進められた。

大田庄の成立と在地領主

 伊尾村は、平安期の『和名抄』にみえる備後国世羅郡4郷のうちの桑原郷に属す。11世紀前後、桑原郷伊尾を本拠とした在地の豪族・橘氏*1が、後に西隣の大田郷と併せて開発。永万二年(1166)、後白河上皇を領主、平重衡(清盛の子)を預所(荘園の責任者)として荘園・大田庄が成立した(「丹生文書」)。橘氏下司として荘園支配の実務を担ったとみられる。

 平安末期に平氏が滅亡すると、後白河院は文治二年(1186)に内乱の死者供養を名目として、有力寺院であった紀伊国高野山金剛峯寺に大田庄を寄附(「宝簡集1」)。新たに大田庄の領家となった高野山は、同地に支配拠点として今高野山を建立するとともに、桑原郷地頭(下司)・橘氏に赤屋郷の開発を命じるなど積極的に荘園支配に関わった(「又続宝簡集142」)。

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 一方で高野山橘氏の対立は、建久元年(1190)には表面化していた。同年十二月、高野山下司・橘兼隆と大田(橘)光家の乱妨・押領を停止させるよう後白河院に訴えている(「宝簡集5」)。そして遂に建久七年(1196)、大田庄が四分割されて、それぞれ高野山僧が庄務を担うこととなり(「宝簡集2」)、橘氏の勢力は減退する。

 さらに橘氏は、正治元年(1199)までには謀反の罪で関東に召し下され、代わって大田庄地頭職には幕府の問注所執事であった三善康信が補任された(「高野山御影堂文書」)。以後、三善氏は地頭職を世襲し、領家である高野山と時に対立しながら、在地支配をすすめることになる。

大田庄の地頭方拠点

 嘉禎元年(1235)の三善康連(康信の子)の陳述によれば、伊尾村には「前下司(橘)兼隆屋敷」があったとされる(「宝簡集5」)。また嘉禄元年(1225)、康連は高野山預所に対し、伊尾村の下津屋には往古より「地頭氏寺」があったことを伝えている(「又続宝簡集50」)。橘氏に代わって大田庄地頭となった三善氏は、橘氏の伊尾における屋敷等の施設を踏襲したとみられる。

 橘氏屋敷の場所は伊尾の本地地区が候補に挙げられている。同地区内には「竹ノ下」(地頭屋敷の所在した場所に多い地名)、「的場」、「堀」、正田」(荘田あるいは城田)などと呼ばれるところに小名や家の姓がみられ、この辺りに館があった可能性を示している*2

 本地地区東隣の下津屋地区には、上述のように地頭氏寺があったとされる。また高野山はこの地に政庁として政所を設置したらしい(「又続宝簡集50」)。付近には「東覚坊」、「大坊」、「後大坊」、「本土坊」などの寺院跡をうかがわせる屋号が残っており、古くから寺々があったことが分かっている。また現在の下津屋十二坊跡*3には、寺跡や土塁が残り、中世の五輪塔群や宝篋印塔なども散在しており、往時の繁栄を物語っている。

 これらのことから、大田庄の開発初期においては、伊尾の本地と下津屋の両地区が、政治・経済・文化(信仰)の一大中心地であったことがうかがえる。

室町期の伊尾

 室町期になると、備後守護・山名氏による大田庄への関与が強まる。伊尾には山名氏被官・下見氏が進出。伊尾の高村地区では、昔から「シモミ」と呼ばれていた場所で一辺100メートルの居館跡が見つかっており、下見氏の平時の居館跡と推定されている。また同氏は伊尾の鳶が丸城(城が平山)を居城としていたと伝えられる。

 下見氏の具体的活動については、享徳三年(1454)二月に下見泰綱が海裏(宇津戸)の鋳物師・丹下三郎左衛門尉を備後国鋳物師惣大工職に任じたことが確認される(「木下文郎家文書」)。しかし明応三年(1494)三月二日、山名俊豊(宗全の曾孫)が下見次郎左衛門尉の旧領だった大田庄桑原郷を、山内大和守*4に与えているから、この時没落していたのかもしれない。

 なお下津屋十二坊は、15世紀後半の段階では残存していた。文明三年(1471)の尾道西国寺の寄附名簿に、「下津屋山衆」惣中が1貫文の寄附を行っていることがみえる*5

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戦国期の伊尾

 戦国期の伊尾には、尾首城を居城とする湯浅氏がいた。湯浅氏は当初は山名氏被官であったとみられるが、後に周防大内氏に属し、安芸毛利氏が大内氏から離反すると毛利氏に属した(『萩藩閥閲録』巻104)。

 伊尾の大通地区の芦田川沿いにある土居屋敷遺跡は、元はこの湯浅氏の下屋敷であり、天正十六年(1588)に土屋氏の先祖が譲り受けたと伝えられている(「土屋家文書」)。遺構からは龍泉窯系の青磁茶碗、備前焼甕・すり鉢等、唐津系陶器、伊万里系磁器などが出土。15世紀後半を下限とする遺物とみられている。

 土居屋敷のある土屋氏の屋号は「土居」という。明治時代の地籍図によると、芦田川に合流する片田川に沿って「中土居」「向土居」「重土居」「上土居」の屋号があった。このことから、本流の芦田川よりも、支流である片田川を利用して、この地区の開発が行われていたことがうかがえる。

 また大通地区の「大通」という小字名は、「土居」のすぐ傍を通る道が、鳳林寺(湯浅氏の菩提寺か)に通じる参道であったことから名付けられた可能性が指摘されている。鳳林寺の前には「栗宗屋敷」と呼ばれる屋敷跡の存在が伝えらえており、この道はかつては町屋のようなものの中心プランだったことも考えられるという*6

 文禄五年(1596)二月、検地が実施された伊尾村の所領が改めて湯浅将宗に宛行われた(「萩市郷土博物館所蔵文書」)。これによると、当時の伊尾村は田が87町余、畠が13町余、屋敷が123ヶ所(寺を含む)あったことが分かる。

参考文献

  • 甲山町史編さん委員会 編 『甲山町史 資料編Ⅰ』 甲山町 2003
  • 広島県世羅郡甲山町教育委員会(社会教育課)編 『甲山町教育委員会遺跡発掘調査報告書 第1集 大通土居屋敷跡』 1997

伊尾の本地地区

本地地区本地谷の安楽坊の遠景。安楽坊は下津屋十二坊の子院の一つであったという。

下津屋地区の権現山。この地区には地頭氏寺があったとされ、多くの寺院があったことも伝えられている。

下津屋仁王門。下津屋には往古より地頭氏寺があったと鎌倉期の文書にあり、仁王門一帯に地頭橘氏の氏寺があったという。現在の門は江戸期の再興とみられている。

下津屋十二坊跡に残る廃十二坊石塔群の宝篋印塔。南北朝期のものと推定されている。

下津屋十二坊跡に残る廃十二坊石塔群の五輪塔

下津屋十二坊跡に残る廃十二坊石塔群の五輪塔

尾首城跡。2段で構成された同心円状の城跡。戦国期に湯浅氏の城だった。

尾首城主郭の櫓上から見た伊尾

尾首城の堀切跡。「尾首」とあるように東側は東南へ続く山稜線の鞍部を堀切で切り取ってある。

尾首城の主郭

井原八幡宮。尾首城跡南麓にある。社伝によると平安期の康保元年(964)に創建され、南北朝期の康応二年(1390)に再興されたとされる。16世紀、湯浅氏も造営に関わっていた事が棟札から分かる。

鳳林寺。寺伝によると寺の裏山には中世「妙音寺」という臨済宗寺院があったという。
寺の中興開山一峰瑞貫大和尚は天正十三年(1585)に入寂しているので、それ以前の開創と推定されている。

鳳林寺古石塔群。近世地誌には戦国期の尾首城主湯浅氏の墓所と記載されている。宝篋印塔や五輪塔が並んでいる。

鳳林寺古石塔群の宝篋印塔。並ぶ5基の宝篋印塔は室町後期の作と推定されている。

鳳林寺古石塔群の自然石墓碑。「岩秀浄井禅定門天正十三年九月廿日死去」の陰刻銘がある。

鳳林寺境内にある五輪塔群。

鳳林寺の下方の毘沙門堂脇にある宝篋印塔と五輪塔。下見氏の墓塔ともいわれる。

鳳林寺の下方の毘沙門堂からの眺望

大通土居屋敷跡。戦国期の尾首城主湯浅氏の下屋敷だったが、天正十六年(1588)に土屋氏の先祖が譲り受けたと伝えられる。

大通土居屋敷跡から見た瀬戸門橋。その名は屋敷の背戸門に因むといわれる。

五輪塔

橋から見た伊尾の大通地区

*1:橘氏備後国国衙(国家の地方自治機関)の役人を系譜にもつ一族で、平安末期には地方豪族かしていたと考えられている。

*2:また同地区の荒神社には、平安末期から鎌倉・室町期そして江戸中期までの和鏡が伝世している。少なくとも鏡を奉納するだけの有力者がこの辺りに存在していたことがうかがえる。

*3:江戸期編纂の地誌『芸藩通志』によると、「本道坊」「成道坊」「寂光坊」「大乗坊」「一乗坊」「本覚坊」「大坊」「中道坊」「円満坊」「東光坊」「梧台坊」「普門坊」の十二の坊名が記されている。

*4:備後北部地毘荘を本拠とする国人・山内氏の一族か。同じく明応三年(1494)三月二日、山名俊豊は大田庄内の上原代官職を山内豊成に補任している。

*5:近隣では「今高野衆」惣中や、その子院、僧侶らが寄附を行っている。

*6:「土居」周辺には小字より小さい地名である小名として、周辺の耕作地に「コウモト」「ソデノマチ」「ハタケダ」「ヤシキマチ」などの呼び名が伝わっている。

白潟 しらかた

 出雲国宍道湖東岸の港町。宍道湖東側の出口に形成された砂州の先端付近に形成されたとみられる。水陸の交通の要衝であり、また職人ら多くの住人を抱える都市でもあった。

水陸の要衝

 中世の白潟は、宍道湖東側の出口で、北に向けて伸びる細長い砂洲の先端付近に形成されたと考えられている。そこは、宍道湖と中海を結ぶ内海水運の要衝であるとともに、意宇郡と島根郡を橋によって結ぶ陸路の要衝でもあった。

 貞和六年(1350)八月十三日、足利直冬方と幕府方の軍勢が「白潟橋上」において「終日」戦っており(「小野家文書」『萩藩閥閲録』巻66)、白潟が軍事的な重要拠点であったことがうかがえる。また「白潟橋」が14世紀半ば以前から存在したことも確認できる。なお14世紀末の「大山寺縁起絵巻」にも、橋姫大明神(売布神社)と思われる鳥居とともに橋が描かれている。

 天正三年(1575)六月二十二日、薩摩へ帰国中の島津家久の一行は、伯耆国米子の町を出発した後に出雲国馬潟で「関」(通行料)を支払い、「しらかた(白潟)」という「町」に着船し、小三郎という者の所で昼食をとっている。白潟からはさらに船で宍道湖を西に進み、平田の町に着いて宿泊している(「島津家久上京日記」)。白潟が中海・宍道湖の水上交通の要衝であったこととともに、「町」と表現される港湾都市であったことがうかがえる。

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繁栄した町場

 明応四年(1495)正月、白潟橋姫大明神(売布神社)に白潟の有力者・松浦道念*1が寄進を行なっている(「売布神社文書」)。この時の寄進状には「両目代、又にし・ひがしおとな中」と記されており、当時の白潟が東西二つの町場から構成され、それぞれに諸役徴収などを行う支配機構の末端である「目代」と、住人代表層である「おとな(乙名)中」が存在していたことが分かる。目代が2名いたことから、当時の白潟の町がかなりの規模を有していたことがうかがえる。

 また永禄六年(1563)頃、出雲国へ侵攻していた毛利氏は、毛利元就家臣・河村又三郎を「白潟末次中町」の「磨師(とぎし)・塗師(ぬし)・鞘師・銀細工悉司(つかさ)」に任じている(『萩藩閥閲録』巻98)。この職人統括の権限は、直接的には武器(刀剣)の製造や調達に関わるものとみられるが、白潟橋の南北の町(白潟と末次)に多種多様な職人集団が存在していたことが分かる。

 後世の伝承によれば、松江開府以前の住人として、柴田氏、島谷氏、本町の森脇甚右衛門、売布神社の青戸社司らがいたという。また舟目代松浦六右衛門が開府以前から大橋南詰にあり、伊予屋庄兵衛、持田屋、菊屋などの豪商もいたとされ、人口は千人を下らなかっただろうとされている。売布神社の元亀三年(1572)「古縁起」には、この町に毎月六斎市を立て、恵美須を祝い売買で賑わったと記されている。

京極氏・尼子氏と白潟衆

 永享十一年(1439)三月、京極氏被官の若宮栄藤が「橋姫大明神」に対して「御屋形之御祈祷料」*2として、また「栄藤か子孫マテ」祈祷のために神田一段を寄進(「売布神社文書」)。また享禄三年(1530)七月と享禄四年(1531)四月には京極氏一族の鞍智右馬助久信が橋姫大明神へ灯明田などを寄進している(「売布神社文書」)。鞍馬右馬助は天文九年(1540)八月、竹生島奉加帳に尼子氏の「御一族衆」として記されている(「宝厳寺文書」)。これらのことから、出雲守護・京極氏やその被官で出雲支配を継承した尼子氏が、白潟と深い関わりを持っていたことがうかがえる。

 このため、白潟は尼子氏と毛利氏の戦争で尼子方となっており、永禄五年(1562)、毛利方の本城氏の放火を受ける(「森脇覚書」)。その後毛利氏の支配を受けるが、永禄十三年(1570)二月、「白潟衆」が尼子勝久方として合戦に及んだため、毛利氏によって残す所なく放火された(「毛利家文書」『萩藩閥閲録』巻101「譜録・南方九左衛門親政」)。

 毛利氏と戦った「白潟衆」は、「おとな中」が率いる白潟住人たちであったと考えられ、彼らが「衆」としてまとまった軍事行動を取り得る基盤を持っていたことがうかがえる。

毛利氏の支配

 天文十一年(1542)、周防大内氏が出雲国へ侵攻した際、これに従軍した安芸毛利氏は白潟に陣を敷いている(「二宮俊実覚書」)。永禄十二年(1569)十月、毛利氏は出雲国仁多郡の領主・三沢為清に「三百貫津田白方共」を給付(「三澤文書」)。上記のように永禄十三年(1570)二月に毛利氏が白潟を制圧しているので、三沢氏の白潟支配はこれ以降と考えられる。

 一方で、元亀元年(1570)十二月、毛利氏は羽倉城主の多賀元龍領中衆中に対して「白潟・馬潟橋役」を免除している(「多賀文書」)。白潟が三沢領となった後も、白潟橋の維持管理もしくは通行税徴収権は、毛利氏の管轄下にあったことが分かる。

 三沢氏の白潟支配は天正十七年(1589)には終了したと考えられ、その後は吉川広家の領地となった。天正二十年(1592)、意宇郡を領していた広家は、神魂社における普請の夫役として「白潟之者「大庭之者」を徴するとともに、それに関連する湯立神事用途として、銭3貫文を富田から、米1石を「白かた」から供出させている(「秋上家文書」)。当時の白潟が、人や物の調達拠点として重要であったことがうかがえる。

参考文献

宍道湖大橋から見た白潟の町

松江大橋北詰から見た白潟の町

松江大橋南詰付近

白潟の町

出雲ビル。1925年に、松江市で最初に建てられた鉄筋コンクリートのビル。

売布神社。中世は「橋姫大明神」として信仰を集めた。

白潟の町

白潟の町

寺町の由来を伝える看板。寺町には松江開府以前から寺院があったが、堀尾吉晴が富田城から移ってきたことで、さらに10以上の寺院が移転。石屋や古道具屋、土産物屋等が立ち並び門前町として栄えたという。

常栄寺。応永年間に成立した理光庵を、永禄十三年(1570)に毛利元就が嫡男隆元(法名常栄)の菩提を弔うために修造し、常栄寺と改号したと伝えられる。

寺とビル

奥の寺院は宗泉寺。宗泉寺は、明徳元年(1390)に松浦熊太郎が開基し、その子孫の松浦貞房が文安二年(1445)に再建したという。

安栖院。応永年間に湯原氏が再興し、寺号を梅林庵から安栖院へ改称したと伝えられる。かつては宗泉寺の南隣に位置していたという。

白潟天満宮。もともとは富田城内に社殿があったが、慶長年間に堀尾吉晴が松江の亀田山(現在の松江城)に移る事になった際に、白潟に移転したという。

青柳楼の大燈籠。高さ6メートル余り。もともとは明治初期から歓楽地として賑わった白潟天満宮の裏(天神裏)で、代表的な料亭の一つ「青柳楼」にあった。当時、その場所は宍道湖の波打ち際であり、燈籠は入江の灯台の役目も果たしていたという。

*1:松浦道念は明応八年(1499)九月の文書に「白方松浦道念」としてみえる(「売布神社文書」)。この文書から、道念は長田西郷市成村「ほりの内名」内も永代買得して橋姫大明神へ寄進していたことが知られる。明応四年の寄進と併せ、道念が寄進の為に何度も土地を買えるような財力を持つ存在であったことがうかがえる。

*2:「御屋形」は当時の京極氏当主の京極高数を指す。

上原 宗安 うえはら むねやす

 備後国世羅郡大田庄上原を本拠とする国人・上原氏の家臣。上原元将(元祐)の側近とみられ、織田方の羽柴秀吉との交渉を担当した。後に京極氏に仕えた。

羽柴秀吉の調略

 天正十年(1582)四月、織田氏部将・羽柴秀吉備中国に侵攻。宮路山城と冠山城を包囲した。これに対し、毛利方も小早川隆景が幸山城に陣を敷いて羽柴勢と対峙。宗安が仕える上原元将も毛利方の一員として出陣していたとみられる。

 同月二十四日、秀吉は来訪してきた上原宗安に対し、包囲中の両城の陥落は確実であり、次は幸山を包囲するので、その際に内応の約束を果たすことを迫る書状を託している(「上原苑旧蔵文書」)。上原元将と羽柴秀吉が、宗安を介して以前から交渉を進めていたことがうかがえる。

 また秀吉は、海上では塩飽衆、能島村上氏来島村上氏が人質を出して城を明け渡していること、東国では甲斐武田勝頼が首を刎ねられ、関東だけでなく奥州も平定する方針であること、織田信長も間も無く備中に出陣し、同時に伯耆国方面からも軍勢が差し向けられること、等の情勢を伝えている。実際には能島村上氏は毛利方に留まっており、秀吉が上原氏に伝えた情報には虚偽が含まれていた。

寝返りの発覚

 天正十年(1582)六月、上原元将は羽柴勢が包囲する備中高松城南方の日幡城に入っていた(『萩藩閥閲録』巻53)。元将は自身の本拠に近い備後国世羅郡伊尾を領する湯浅将宗にも寝返りを誘ったが、将宗が毛利方に密告したことで露見(『萩藩閥閲録』巻104)。

 元将の居城*1は楢崎元兼によって陥され、元将の妻(毛利元就の娘)は安芸吉田に送られた(『萩藩閥閲録』巻53)。また元将の旧領は湯浅将宗に与えられている(『萩藩閥閲録』巻104)。

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京極高次に仕える

 寝返り露見前後の上原宗安の動向は不明だが、その後、京極高次に仕えたらしい。高次は羽柴秀吉に仕えて近江国高島郡を領していた。年未詳九月十八日、宗安は高次から高島郡田井村(石高580石6斗3升)の代官職を命じられている(「上原苑旧蔵文書」)。

 なお宗安の子とみられる上原木二も京極氏に仕えた。年未詳六月、京極忠高(高次の子)に信楽の茶壺を献上して礼状をもらっている(「上原苑旧蔵文書」)。

参考文献

  • 甲山町史編さん委員会 編 『甲山町史 資料編Ⅰ』 甲山町 2003
  • 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録』第二巻 1968

上原元将が入った備中日幡城跡

*1:現在の広島県世羅町上原にある沼城跡か。

高山 こうざん

 備後国世羅郡大田庄の今高野山およびその門前町。中世、紀伊国高野山領となった大田庄の支配拠点となったとみられる。17世紀初頭の福島正則の時代には安芸・備後屈指の町場へと発展していた。江戸期の名称は「甲山町」であったが、文政三年(1820)の「世羅郡甲山町国郡志御用下調べ書出帳」によれば、往古は「高山町」と書かれているとする*1

大田庄と今高野山

 備後国世羅郡大田庄は永万二年(1166)、後白河上皇を領主、平重衡(清盛の子)を預所(荘園の責任者)として成立した(「丹生文書」)。大田庄は、その後領域の拡大が進み、最終的には現在の世羅町の大部分と三次市吉舎町、甲奴町、府中市上下町の一部を含み込んだ大荘園となった。

 平安末期に平氏が滅亡すると、後白河院は文治二年(1186)に内乱の死者供養を名目として、有力寺院であった紀伊国高野山金剛峯寺に大田庄を寄附(「宝簡集1」)。新たな荘園領主となった高野山は大田庄の年貢を貴重な財源と位置づけ、開発を積極的に進めていった。現地支配の拠点として今高野山を充実させていったのも、この頃と推定されている。

 鎌倉期、高野山は大田庄の支配をめぐり地頭・三善氏と対立。13世紀末頃に預所となった淵信は、三善氏との裁判や大田庄支配に辣腕を振るったことが知られる。淵信は、正安二年(1301)から始まる寺町(現在の世羅町寺町)公文の道空らとの訴訟合戦などで、結果として大田庄の実務から離職させられることになったが、その後も尾道に居住し影響力を保持し続けた。

 淵信離職後も、その一党に連なる了信や定淵が、高野山から大田庄の預所に任命された。了信は淵信らの供養の名目で、元享三年(1323)、今高野山に多宝塔を建立(「浄土寺文書」)。また、弘法大師入定の際使用したと伝える薦(こも)や縄といった重要な宝物を高野山より入手して今高野山御影堂の重宝となし、さらには尾道浄土寺に寄進している(「浄土寺文書」)。

倉敷地尾道

 大田庄の年貢は、海路で京都や紀伊国高野山にいる荘園領主のもとに運ばれた。その積出港は備後尾道であり、同港は仁安三年(1168)に大田庄の倉敷地*2として承認されている(「宝簡集4」)。これ以降、尾道は瀬戸内海を代表する中世港湾都市として発展していくことになる。

 永享十一年(1439)から文安四年(1447)までの期間における、尾道からの大田庄年貢の輸送の状況は、「高野山金剛三昧院文書」の「大田庄年貢引付」という史料からうかがうことができる。尾道から積み出された年貢には、米や大豆、幕布などがあり、これを尾道因島、備中連島備前児島、播磨兵庫などの船が運送。年貢は和泉国の堺などを経由して紀伊国高野山に運ばれた。

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高野山支配の終わり

 室町期になると、備後守護・山名氏による大田庄への関与が強まる。応永九年(1402)七月、室町幕府高野山に対し、山名時煕が大田庄桑原方地頭職や尾道倉敷等を支配する事と、年貢徴収も代行して毎年千石を寺に納めることを通達(「宝簡集28」)。高野山は備後守護から送られてくる年貢を受け取るだけの存在となり*3、大田庄での自らの積極的な支配は不可能になってしまった。

 そして高野山では寛正四年(1463)の文書を最後に、大田庄に関わる文書はみえなくなる。

 応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発すると、その影響は大田庄の今高野山周辺にも及んだ。応仁二年(1468)八月に久代要害、九月には小世良、十一月には川尻で合戦があり、東軍の山名宗全が備後北部地毘荘を本拠とする国人・山内豊成に感状を発給している(『萩藩閥閲録』巻13)。

 さらに明応三年(1494)三月、山名俊豊(宗全の曾孫)は大田庄の内の上原代官職を山内豊成に補任し、明応五年(1496)四月には山内直通(豊成の子)に大田庄本郷と寺町分の知行を与えている(『萩藩閥閲録』巻13)。

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和智氏の進出と今高野山の再興

 その後、備後国双三郡吉舎を本拠とする国人・和智氏が南下。大田庄上原に居館を構えた和智氏の一族は上原氏を称した。

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 文政三年(1820)の「世羅郡甲山町国郡志御用下調べ書出帳」によると、永正から天文の頃、今高野山の山頂部の古城(今高野山城)を上原氏が居城としていたという。居館のある上原と今高野山膝下の高山は、永正年間頃から同氏の本拠地となったとみられる*4。なお上原氏は安芸国吉田の毛利氏にも属しており、弘治三年(1557)の「毛利氏親類衆年寄衆并家人連署起請文案」には上原右衛門大夫豊将*5も加判している(「毛利家文書」)。

 ただ18世紀中頃に今高野山安楽院の僧・常操が記した記録によると、天文九年(1540)二月、侵攻してきた出雲尼子氏の軍勢によって今高野山は火を放たれた。弘治二年(1556)四月、今高野山福智院の僧・覚弁は、今高野山再興のための寄附金を出した真瀬喜右衛門尉に対して「堂塔、二王門、鎮守社悉く大破たるといえども、近年兵乱打ち続き、誰ぞ再建の沙汰に及ばん」と述べており(「吉岡雅晴家文書」)、再興がままならなかったかつての状況を吐露している。

 上記の安楽院の僧・常操の記録には「弘治二年六月和知右衛門大夫豊将之を経営」とあり、焼失した今高野山を和智上原豊将が中心となって再興したことがうかがえる。実際、今高野山龍華寺に伝わる鉄製の十二燈明台には、弘治二年三月吉日の紀年銘とともに「大旦那藤原氏和知右衛門大夫豊将」の陰刻がされており、和智上原豊将の寄進が行われていることが分かる*6

高山町の発展

 慶長六年(1601)、安芸・備後は毛利氏にかわって福島正則の領国となる。元和五年(1619)、福島氏に代わって浅野氏、水野氏がそれぞれ安芸と備後に入部するが、この時引き渡された「安芸国備後国御知行帳」に、世羅郡「高山町」、佐西郡草津町屋敷」、同郡「廿日市村町屋敷」、高田郡安芸町」、賀茂郡下市町屋敷」(竹原町)、同郡「四日市町屋敷」、沼隈郡「鞆町」がみえる。

 福島氏の時代、「高山町」はそれまでに所属していた小世良村と完全に分離した町場となり、領国経済の一翼を担う交易市場として位置付けられるようになっていたことが分かる。

 なお、江戸期に甲山町(高山町)の庄屋や町年寄を代々勤めた加儀屋は、先祖である広瀬三郎右衛門が小早川隆景に随って天正年間に安芸吉田から高山に移住し、慶長年間に甲山町(高山町)目代役を勤めたことに始まるという(「広瀬家文書」)。高山町発展の端緒は、毛利氏時代に遡る可能性もある。

 元和五年(1619)に入部した浅野氏も、広島城下町を中心とした物資の流通機構を整備して領国経済の発展に注力した。さらに寛永十年(1633)の幕府巡検使の領内巡察を契機として、尾道から御調郡市村、高山(甲山)を経て吉舎、三次(三吉)、さらに出雲・石見へ向かう雲石街道も整備。高山町の本陣は上記の加儀屋(広瀬家)に置かれた。

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 雲石街道のうち、石見国へ至る街道は石州銀山街道とも呼ばれ、石見国大森銀山で産出された銀は、この街道を経由して尾道まで運ばれた。一行は三次で宿泊した後、吉舎で昼休、高山町(甲山町)で宿泊して尾道へと向かった。この為、寛永年間までに高山町はさらに発展し、寛永十七年(1640)の領内町改めでは、町長3丁40間、家数94軒であった(「学己集」)。

関連人物

参考文献

  • 甲山町史編さん委員会 編 『甲山町史 資料編Ⅰ』 甲山町 2003
  • 甲山町史編さん委員会 編 『甲山町史 資料編Ⅱ』 甲山町 2004

高野山仁王門(総門)。弘治二年((1556)の造営に関わる文書にも「二王門」とあるので、これ以降に再建されたとみられる

高野山総門から龍華寺・丹生神社に続く参道

粟島神社鳥居。元は安楽院の境内地に、同院の鎮守社として祀られていたという。
この鳥居は、柱に南北朝期の康暦二年(1379)の紀年銘が刻まれた貴重なもの。

粟島神社境内の石塔群。元は道路を隔てた胡社の脇にあったもの。中には鎌倉中期のものとみられる古式の宝篋印塔の残欠がある。

結界石とは寺域の四方に聖域を示す為に建立されたいた石柱。この結界石は、今高野山塔頭寺院であった金剛寺の山門の四方に建立されたもの。

安楽院本堂。寄棟造・書院造で室町期の建築と推定されている。一説には上原氏の屋敷を移築したものとも。

龍華寺の御影堂と観音堂。両方、元禄15年(1702)に再建されたもの。

龍華寺御影堂裏の石塔群

左側が丹生が(にう)明神、右側の社殿に高野明神が祀られ、両社あわせて「丹生(たんじょう)神社」という。世羅郡大田庄が高野山領となった際、龍華寺等の政所寺院の鎮守社として紀伊国高野山から勧請されたと推定されている。

「願主の墓」と伝わる五輪塔。今高野山の塔の岡にある。鎌倉末期から南北朝期に造立されたとみられ、元享三年(1323)に多宝塔を建立した今高野山雑掌・了信に関わるものと推定されている。

高野山の普門閣から見た高山町(甲山町)

高野山城頂上部の甲岩。

高野山の主郭の切岸か。

甲岩から東方の大田庄東上原方面を見る

高野山城三の丸の古城山展望台から西上原を見る

古城山展望台から西方の本郷、寺町、堀越方面を見る

旧甲山町の今高野山通りの町並み

旧甲山町の今高野山通りの町並み

高野山に隣接する正満寺。文政三年(1820)の「世羅郡甲山町国郡志御用下調べ書出帳」には、上原元祐(元将とも。豊将の子)が阿弥陀如来立像を寄進したことが記されている。

旧甲山町西上原にある沼城跡。今高野山城の居館にあたるとみられ、周囲が土塁や水堀で囲まれていた。現在、水堀は田となっている。

和理比売神

世羅町寺町の村社八幡宮近くから見た今高野山城跡

世羅町堀越にあった万福寺跡の石塔群。万福寺は堀越城主・小寺氏の護持を受けていた。天文十六年(1547)、前年に死去した小寺敬秀の供養が万福寺で行われ、毛利氏も供養の品を寄進している。

廃万福寺塔婆。基礎の前面に応安三年(1370)の紀年銘がある。

光明寺宝篋印塔。造立は鎌倉期から南北朝期とみられている。蔵骨器と考えらる須恵質の甕が出土している。

*1:「今高野山の麓なる町」を略して「高山町」としたのではないかとの考察も併せて記している。

*2:倉敷地とは、荘園の年貢を海上運送するまでの保管する場所のこと。

*3:その後、守護方から納められるはずの年貢も、未進が続くようになる。永享十二年(1440)二月、高野山は応永三十五年(1428)から永享十一年(1439)の間の年貢未進は都合5167石余にのぼっているとし、山名氏の代官・犬橋近江守の更迭を求めている(「又続宝簡集142」)。

*4:明応年間に上原や本郷、寺町に知行を得た山内氏が、最初に今高野山城を築いた可能性もある。

*5:上原豊将の子の元将(元祐)の妻は毛利元就の娘であり、上原氏は毛利氏の親類衆であった。

*6:高野山に伝わる「紙本著色弘法大師画像」には、軸木に弘治二年五月の墨書があり、鉄製十二燈明台と同時期の寄進であることから、この画像も和智氏によって寄進されたものだと考えられている。

材木(周防国玖珂郡) ざいもく

 周防国最東部の玖珂郡の小瀬川や錦川流域で生産された材木。少なくとも鎌倉期から河川水運を用いて瀬戸内海に搬出されていた。安芸国厳島神社造営などに用いられていることが確認できる。

石国庄沙汰人の訴え

 嘉禎三年(1237)、周防と安芸の国境を流れる小瀬川に設置された「安芸国御領関所」の役人が、石国庄の年貢物である材木板を「船出浮口」と称して不当に没収しているとして、石国庄沙汰人が訴え出た(「新出厳島文書」)。

 「浮口」は「河口」とも呼ばれ、中世の河川や港湾で課す通行料を意味する。「船出浮口」というのは、川下しした材木を、瀬戸内海を航行する船に積み替える際に課税したものと考えられている。

 岩国庄沙汰人等は、石国荘の年貢物に「浮口」が課税された先例はないと主張。一方で負担そのものを否定しているわけではなかった。ただ、通常「浮口」は10分の1であるのに、480枚中135枚という割合だったため、徴収される量が多すぎると主張。

 さらに彼らが周防国山代荘内の関浜に押し入って材木を暴力的に奪い取ったとして、これを強く非難している。当時、小瀬川に「関所」を設置したのは安芸国だけでなく、周防国山代庄も「関」を設置していたことがうかがえる。

 この石国庄沙汰人等の訴状から、小瀬川流域の材木の搬出経路が分かる。すなわち、伐り出された材木は川下しで河口近くまで運ばれ、倉敷地に一時保管された後に、瀬戸内海を航行する船に積み替えれて消費地に運搬されていたとみられる。

厳島神社の造営

 室町・戦国期、厳島神社の社殿や鳥居の造営のため、玖珂郡の岩国や山代の材木がたびたび利用された。

 永享八年(1436)三月、大内氏奉行人は厳島神主・藤原親藤の要請に基づき、山代庄宇佐山(岩国市錦町宇佐郷)の材木に対する河関での堪過(免税)許可を、関役人とみられる城勘解由左衛門尉に通達している(「厳島野坂文書」)。宇佐山(寂地山系南麓を指すか)から伐り出された材木は、宇佐川・錦川を下されたものと推定される。

 永禄四年(1561)の厳島神社大鳥居造営の際は、玖珂郡多田および多田八幡宮から杉4挺と楠2本が、岩国白崎八幡宮から楠1本と杉3本が、岩国の無量寺と永興寺から松2本が、それぞれ出されている。また山代庄宇佐からは笠木が、小瀬村からは道木1000本が取り寄せられた*1

 多田の材木のうち脇貫4丁の伐り出しには多田衆300人が、岩国の大小5本の伐り出しには800人が動員された。これら多田・岩国の材木は、大小16艘の船によって厳島に運搬された(「大願寺文書」)。

 その他、岩国には「かさ木(笠木)之道具」の調達が割り当てられている。錦川下流域の岩国では、木材加工が行われていたことがうかがえる。

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造船の船板

 玖珂郡小瀬村の乙瀬の山中に「船板」という所がある。江戸期の享和二年(1802)に編纂された『玖珂郡志』によれば、その地名は、羽柴秀吉の時代に安芸国久波(玖波)唐船浜で建造された防房丸という船の船板が伐採されたことに因むという。

 玖波は造船が盛んな港であり、天正三年(1575)三月、上洛中の島津家久海上からその造船の様子を眺めて「是ハ舟を作所也、作おろさるる舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす」と日記に記している(『中書家久公御上京日記』)。玖珂郡小瀬川流域の材木は、以前から玖波に運ばれて造船等に用いられていたのだろう。

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参考文献

  • 藤田千夏・秋山伸隆 「岩国城下の前史」 (岩国市 編 『錦川下流域における岩国の文化的景観保存調査報告書』 岩国市 2019)
  • 岩国市編纂委員会 編 『岩国市史 史料編一 自然・原始・古代・中世』 2002
  • 広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅱ』 1976
  • 広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅲ』 1978

白崎八幡宮。永禄四年、楠や杉が伐り出され、厳島神社大鳥居の材木とされた。

*1:道木の大きさは、7〜8尋のものが500本、11尋が50本と定められている。