戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

臼井 善教 うすい ぜんきょう

 石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。臼井氏については西田の字「鋳物屋」や、「鋳物屋」から峠をはさんで北隣に位置する野田集落との関連も指摘されている。

西田の有力者・臼井氏

 慶長二年(1597)十二月十日、邇摩郡西田に賦課された税額を書き上げた「地銭・諸役銀付立写」が作成された。同文書に記載された税は三種類であり、すなわち屋敷の間口を基準に賦課された地銭、物資輸送に関連する税である馬役銀、酒税である酒屋役であった。

 この「地銭・諸役銀付立写」には毛利家臣・羽仁美濃守元胤が署判を加えており、宛所は臼井善教入道、中富三郎右衛門、中祖弥四郎、井藤又右衛門、目代木工助となっている(「五国証文」)。臼井善教を含めた宛所の五名は当時の西田を代表する有力者とみられる。

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 また同文書によれば、臼井善教は西田地内に三つの屋敷を有し、合計9匁の銀を地銭として賦課されていた。このほかに記載された臼井氏の地銭負担額をみると、臼井弥三が銀9匁5分(屋敷二つ)、臼井勘七が銀8匁(屋敷一つ)、臼井清左衛門が銀2匁4分(屋敷一つ)となっている。

 なお「地銭・諸役銀付立写」の馬役銀は銀1貫920目であり、西田に賦課された税全体の9割弱を占めていた。馬役銀の同種の税は、慶長五年(1600)の「子歳石見国銀山諸役銀請納書」*1にも記載がある(「吉岡家文書」)。

 同文書の「西田ヨリ銀山迄駄賃役年中分」によれば、西田では駄賃役として一年で銀290枚を納めることになっていた*2。この駄賃役の請人の一人が薄井(臼井)善教であり、ほかに中祖淡路、伊藤又右衛門、中富三郎右衛門、高野信五左衛門の名がみえる。

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西田の字「鋳物屋」と鉄資源

 臼井家の本宗家は、西田の北に接する野田集落にあり、西田から野田へと向かう坂を上り、峠を越えて野田の地内にはいって間もなくの場所に屋敷があった。この屋敷から峠をはさんで反対側にあたる西田の字「鋳物屋」にも臼井家の所有地があったとされる。また臼井本宗家の屋敷は、かつて西田地内にあったとも伝えられるという。

 「鋳物屋」の字名は、銀山周辺では西田以外にも久利集落(大田市久利町久利)、祖式集落(大田市祖式町)、殿村(大田市温泉津町井田)などにも確認されている。また久利に関しては、応永十年(1403)の書写とされる「石見国久利惣領田畠目録案」の中に、すでに「いものや」の字名が確認できる(「久利家文書」)。

 この久利の例から、「鋳物屋」地名がある場所で鋳物が生産されたのは、かなり古い時代に遡り得ると考えられている。

 なお鋳物を生産するにあたっては、原料の鉄や銅をはじめ、さまざまな資材を他所から移入する必要があった。西田周辺の砂鉄産出地の一つが馬路村(大田市仁摩町馬路)であり、同地には鉄に関連する字地名もある。そして西田からは野田、西垣内、願城寺の集落を経て、比較的容易に馬路村へと至ることができた。

 前述のように臼井善教は「石見国銀山諸役銀請納書」における駄賃役の請人の一人であり、問屋のような流通に関与する人物であったとみられる。あるいは善教ら臼井氏は、馬路方面からの鉄資源の輸送にも関わっていたのかもしれない*3

参考文献

画面左側の谷を机原川が流れている。谷の机原川右岸の南向きの斜面が字「鋳物屋」であり、臼井家の所有地があった場所でもあるという。

*1:石見銀山に関わる諸役の額、および請人についてまとめたもの。石見銀山が毛利氏から徳川氏へと移管された際に作成された。

*2:仮に銀1枚を43匁で計算すると、慶長二年の馬役銀は銀40枚程となる。慶長五年の駄賃役は銀290枚であり、わずか3年で7倍以上に増税されていることになる。この背景には、慶長二年に豊臣政権が朝鮮半島に再出兵した影響があるとされる。

*3:臼井氏の本宗家は西田から野田への出入口を占め、その分家筋の家は野田方面に多いとされている。