戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

大賀 道世 おおが みちよ

 石見国の国人・三隅氏の家臣。官途名は兵部左衛門、後に壱岐守。三隅川河口の三隅湊を本拠とした。

三隅興兼からの安堵

 永正六年(1509)七月、三隅興兼が親の兵部左衛門尉の当知行分と「湊津」を大賀弟法師という人物に安堵している。この弟法師は、道世の幼名だろうか。

 親とされる兵部左衛門尉は、この前年の永正五年二月に同じく三隅興兼から湊聚泉寺領職や「大賀壱町并門前屋敷」などを安堵されている。兵部左衛門尉がこの後死去したため、子の弟法師に対して興兼が改めて安堵を行なったと思われる。

大内氏分国での通行料免除特権

 天文二十一年(1552)七月、大賀兵部左衛門(道世とみられる)は大内義長から「分国津々浦々関所」の「煩」(通航料とみられる)を免除された。これは永享四年(1432)と天文十二年(1543)に、それぞれ大内持世と大内義隆から大賀氏に与えられた特権と同様のものであった。

 しかし、これには制限が加えられた。陶晴賢、仁保隆慰、橋爪鑑実ら3名の大内氏奉行人は、免除対象外の船も関役(通行料)を払っていないのは、大変けしからぬ事だと指摘。今後は関役免除を8端帆1艘、6端帆2艘に限定すると通達している。

 道世の代の大賀氏は、多数の船を保有していたのだろう。同時に大内氏分国の関役免除特権を活用(濫用)して、活発な交易を展開していた様子をうかがうことができる。

益田氏への従属

 年未詳の正月、石見益田の国人・益田藤兼が「愚領三隅湊船頭大賀壱岐守(道世)」の船について、大内氏の許可通り関役を免除するよう大内家臣らに要請している書状が残されている。永正六年の後、三隅湊は三隅氏から益田氏の支配下となり、道世も益田氏に仕えるようになったと思われる。

 天文二十四年(1555)二月、益田氏は三隅川河口部で軍勢を動かし、三隅湊と高城(三隅氏の本拠)の間にあった鐘尾城*1を攻略した。

 同年八月、道世の子の大賀泉加入道に対し、道世の鐘尾城陥落時における活躍が大内義長に披露された事と、大賀氏の分国中津々浦々の諸関役免除が引き続き認められたことを伝えている。道世は益田方の一員として戦い、鐘尾城攻略中に討死したのかもしれない。

参考文献

  • 中司健一 「文献からみた中世石見の湊と流通」(中世都市研究会『日本海交易と都市』 2016 山川出版社

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浜田市三隅町三隅の鐘尾城跡。 大賀道世は鐘尾城攻撃に加わって活躍した。

*1:浜田市三隅町三隅。鐘ノ尾砦とも。「鐘ノ尾」とは、敵を発見した際に鐘を鳴らして味方の出城に警報した山の尾から起こった地名という。