戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

三隅湊 みすみみなと

 石見国の三隅川河口部に位置する港町。現在の島根県浜田市三隅町湊浦。三隅河川流域の物資積出港とともに、石見国の有力国衆・三隅氏の外港として日本海水運、朝鮮貿易の拠点となった。

中世三隅湊の景観

  三隅湊のあった湊浦周辺には現在でも「古市場」、「上古市」、「下古市」などの地名が残されている。このうち、「古市場」は元和五年(1619)八月の石見国吉田領郷帳に「古市場村」としてみえる。近世初期の段階で既に「古市場」という名が付いていたことから、戦国期に遡って市場が存在したとみられる。

 また三隅湊を本拠とした大賀氏は、永正五年(1508)に三隅興兼より「湊聚泉寺領職事、大賀壱町并門前屋敷等」を安堵されている(「大賀家文書」)。このことから聚泉寺を中心に門前屋敷などが成立し、湊町が形成されていたと推測される。

大賀氏の海上活動

 永享四年(1432)三月、三隅湊の大賀兵部左衛門は大内持世から「分国津々浦々并関所」の「煩い」(通行料の事とみられる)を免除されている。この特権は以後も更新された。天文十二年(1543)に大内義隆が、天文二十一年(1552)には大内義長がそれぞれ大賀氏に対して認めている。

 ただし、天文二十一年では、大賀氏の全ての船に対して関役が免除されたとしていることは「曲事」であるとして、8端帆1艘、6端帆2艘分に限定すると通達している。このことは逆に大賀氏が多くの船を保有し、三隅湊を拠点に海上活動を展開していたことを示している。

 益田氏が三隅氏にかわって三隅湊を押えた後、益田兼貴(石見益田の国人・益田氏の有力者)は肥前平戸の松浦隆信のもとに大賀主計允を使者として派遣している。大賀氏が松浦半島や肥前平戸のあたりまで航海できる存在であったことがうかがえる。

関連人物

参考文献

  • 井上寛司 「中世山陰における水運と都市の発達ー戦国期の出雲・石見地域を中心としてー」(有光有学・編 『戦国期権力と地域社会』 1987 吉川弘文館
  • 中司健一 「文献からみた中世石見の湊と流通」(中世都市研究会『日本海交易と都市』 2016 山川出版社

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針藻城跡から眺めた湊浦地区。

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湊浦地区の海岸側から眺めた針藻城。

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針藻城の麓に祀られている宝篋印塔 の一部。

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湊浦地区極楽寺の湊浦六地蔵。元亀元年(1570)三隅城落城時、湊浦地区で激戦があり、多数の犠牲者があった。この六地蔵は、その霊を弔うために安置されたと三隅町誌は伝えている。(看板より)

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湊浦地区極楽寺の宝篋印塔 。五輪塔二基とともにある。塔身が無く、相輪があるべきところに別の宝篋印塔 の屋根が乗っている。

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湊浦地区の町並み。

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三隅川河口部の左岸、古市場地区の町並み。

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現在の上古市の風景。

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伝三隅兼連の五輪塔南北朝期に南朝方として戦った武将三隅兼連のものと伝わる。三隅氏の菩提寺である正法寺にある。

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伝三隅兼連五輪塔付近に置かれている宝篋印塔 の一部。

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木造雨宝童子立象(左)。正法寺に安置されている。鎌倉期の製作といわれる。

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木造雨宝童子立象(右)。