石見西部、匹見川上流の美濃郡疋見郷の南奥に位置した集落。その歴史は古く、同集落のいくつかの遺跡からは縄文前期の遺構や平安期の蓬莱山文鏡、須恵器片が出土している。
三葛の由来
『石見八重葎』『石見私記』には三ケ面(みかずら)とあって「三境之所にて三ケ表にて成すべし哉、後人誤りて三葛と書来れり」とある。「三葛」の名称が石見、周防、安芸の三カ国との接境に由来することが示されている。
山陰と山陽を結ぶ
三葛を中心とした交通を概観すると、紙祖川、匹見川を通じて日本海沿岸地域と通じ、三葛街道(至現吉賀町七日市)によって吉賀地方、周防山代地方、さらには安芸の山里地方へとつながる。また三葛から東に進んで山間部を抜け、直接安芸山里へと通じる道もあったと思われる。山里からは安芸西部の要港・廿日市に至る。
このように三葛は石見と周防、安芸、そして日本海と瀬戸内海を結ぶ陸上交通の要衝に位置していた。
文明十四年(1482)十二月、河内への参陣催促の為に幕府奉行人の飯尾清房、中沢之綱が中国地方に下向。翌年四月、石見国人を歴訪した両名は当初は益田氏が派遣した案内者を得て「吉賀通」で安芸に向かおうとしていたが、予定を変更して「引見」(疋見)から安芸に入ることを益田兼尭に伝えている(「益田家文書」57)。
当時、疋見郷から安芸に入るルートが存在していたことが分かる。飯尾清房らは三葛を経て、安芸山里に向かったのかもしれない。
境目をめぐる抗争
三葛には「三葛の備え」という諺が伝承されていた。三カ国の境に位置し、交通の要衝であったことが背景にある。
益田氏や三隅氏など、疋見郷に影響力を持つ有力国人にとっては境目の戦略要地だった。三葛の武士として、牛尾城の斎藤氏や原頭城の大谷氏が伝わる。
実際に三葛では軍事的な緊張があり、文安三年(1446)、吉見氏支配下の吉賀郷から、河野・上領両氏が三葛に侵入して現在の陣ケ原古戦場で合戦。宝徳三年(1451)には、小松尾城主・大谷則家が逆に吉賀に侵攻して両氏を滅ぼしたという。
三葛を含む疋見郷には、三隅氏の影響力が強かった。しかし天正三年(1575)、益田元祥の内命を受けた仙道の竹城主・寺戸惣衛門によって、大谷氏は滅ぼされた。
殿屋敷遺跡と広域流通
三葛の殿屋敷遺跡は、上記の大谷氏の居館跡と伝えられる。地名調査によると「殿屋敷」に近接して「七九市屋敷」「コウリン屋敷」という地名が確認されている。領主居屋敷の周囲に、被官あるいは直属商人らの屋敷が存在していたことが想定される。
殿屋敷遺跡からは、13世紀中頃から17世紀初頭にかけての中国の青磁や白磁、染付腕、16世紀の朝鮮王朝時代の椀、南蛮系(タイの古陶)の陶片などの海外からの輸入品が見つかっている。備前焼や瀬戸焼、唐津焼、伊万里焼などの国内産陶磁器、永楽通宝等の古銭なども出土している。日本国内はもとより、海外の物資が三葛と大谷氏にもたらされていたことがうかがえる。
背景には三隅氏や益田氏との外交関係、あるいは石見山間部と日本海、瀬戸内海を結ぶ人々の経済活動があるのかもしれない。
また殿屋敷遺跡付近の宝篋印塔と五輪塔は、福井県高浜町日引の周辺で産出される日引石で製作されたもので、製作時期は15世紀とみられている。これらの石塔も北陸から日本海を通じて運ばれ、匹見川を遡って三葛にもたらされたと考えられる。