石見西部、高津川と匹見川の合流点付近に位置した市町。 匹見川と高津川の両河川の流域の物資集散地として、益田氏の本拠・益田本郷と内陸部をつなぐ交通の要衝として栄えたとみられる。
市町の繁栄
天正十九年(1591)の「益田元祥領検地目録」庄内方の項に「代五貫弐百文 横田市地銭」、また「屋敷数六百十四カ所 市屋敷共ニ」とみえ、当時の横田に市町が栄えていた様子がうかがえる(「益田家文書」349)。現在も市原、上市、中市等の地名を検出できる。
匹見川上流の匹見郷や高津川水系上流の吉賀、津和野など河川上流域の物資集散地として、またこれら地域と高津(日本海に臨む高津川河口の港町)、あるいは益田本郷(国人益田氏の本拠)を結ぶ交通の要衝として発展したとみられる。
山陰と山陽の交通
文明十五年(1483)四月、石見から安芸に向かう室町幕府奉行人の行動から、匹見郷または吉賀を経由して安芸に入るという2つのルートが当時あったことが分かる(「益田家文書」57)。これらのルートは安芸の山里地方を経て安芸西部の要港・廿日市へとつながっていた。
年未詳二月、遠国に在陣中の益田藤兼が、石見滞在中の糸賀惟秀(廿日市を拠点とし、商業活動にも従事した旧神領衆)に自分の留守中の「入魂」(昵懇)を依頼している。両者が以前から親密な関係にあったことがうかがえる。
中世市町の終焉
慶長四年(1599)の検地の史料には、横田の市がみえない。一方、益田本郷の屋敷数の増加がみられる(「益田家文書」354)。
当時、益田本郷は七尾城や三宅御土居の城下町として、益田氏被官の集住が進んでいた。生活物資の需要増に対応する為、横田など周辺の市町から益田本郷に町人が流入し、横田など中世の市町は衰退したとみられる。