戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

備前焼 びぜんやき

 備前国香登荘、伊部周辺で生産された無釉の陶器。壺、擂鉢、大甕の三器種を中心に生産され、西日本を中心に貯蔵用や調理用の生活雑器として広く使用された。16世紀ごろから茶陶としても用いられるようになった。

須恵器の生産

 延長五年(927)に完成した『延喜式』では、須恵器の貢納国として摂津、和泉、美濃、播磨、讃岐とともに備前国が挙げられている。備前国がすでに平安期から大窯業地であったことが分かる。また『延喜式』の「主計上」には、備前国から貢納する須恵器として、由加8口、水瓮84口、御埦200口、大酒瓶*1(さかかめ)24口、中壺32合、酢瓶*240口、洗盤60口、脚短杯26口など3012口、634合の計3646点が記載されている。これらは同時代の窯跡出土品から、おおむね壺、甕、椀、杯、盤、研などであると推定されている。

 備前国における最古の窯として、6世紀中頃の戸瀬池窯(和気町矢田部)、木鍋山一号窯(瀬戸内市長船町土師)などが知られる。その後、邑久古窯跡群や磐梨古窯跡群、児島古窯跡群など、群として集団的な操業がみられるようになる。『延喜式』が編纂された平安前期頃に活動していた窯としては、邑久古窯跡群の一角にある佐山地区(備前市)の東山窯、磯上地区(瀬戸内市長船町)の油杉窯が比定されている。

 須恵器生産の窯は、一般に半地下式穴窯と呼ばれる。その構造は、丘陵の傾斜地に溝または小池状の穴を掘り、壁面および天井を粘土でアーチ状に整形したもので、のちの備前焼の窯とほぼ同じものであった。

初期の備前焼

 初期の備前焼の生産は、12世紀中頃から当時美福門院領香登荘内にあった伊部地区で開始された。窯は伊部地区の山麓部に築かれ、著名なものとして、大ガ池南窯跡、大明神窯跡、池灘窯跡などがある。

 窯の形式は半地下式穴窯で、須恵器窯を踏襲していたため、還元炎焼成の焼色に変化はみられないという。邑久古窯跡群終末期の磯上油杉窯跡で採集された椀、壺、甕、鉢、瓦とほぼ同型式のものは、伊部地区最初期の窯跡でも確認されている。ただし若干胎土が粗くなり、高台付きのものが全くみられなくなり、瓦が国分寺用のものから霊地熊山(赤磐市)の寺院用となることなどの変化があるとされる。

 この時期、備前国の陶器が域外に搬出された例は少ない。例外として、治承四年(1180)、熊山西方の吉岡郷万富において、平重衡により焼き打ちにあった東大寺の再建のための屋根瓦が大量に焼成され、南都に送られている。これ以外は、主に中国地方、近畿地方の4県数カ所の集落遺跡から出土例が報告されているのみで、最遠地は山城国相国寺となっている。

全国流通の始まり

 13世紀中頃、備前焼の窯は伊部南北の谷筋に沿って熊山や西大平山の中腹へと位置を変える*3。合ガ淵窯、笹山窯、伊坂越窯、福田越窯などが知られる。

 窯の数は以前と同様の20数基であるが、焼成温度が若干高くなったものか、黒色度を強める傾向を示すという。また、瓦の生産がなくなり、椀・皿の比率が減少する。一方で、壺・擂鉢・大甕の三器種は増大し、同時に個性化してくる。たとえば壺の肩部に箆による直線文が入ったり、擂鉢には全国に先駆けて条線が入り、壺や大甕の口縁部は初期的な玉縁状を呈するようになっている。

 この時期の備前焼が出土した遺跡は、全国で40数カ所が知られている。前代より引き続き出土する百間川遺跡(岡山県)、草戸千軒町遺跡(広島県)に加え、日本海沿岸の因幡国府跡(鳥取県)や太平洋岸の田村遺跡(高知県)、さらに遠隔地では、南九州の鹿児島県川内市鎌倉幕府の中心都市・鎌倉などでも使用されていた。

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 全国的には須恵器系の窯がかなり衰微しており、それに加えて二毛作や開墾による農村の発達、水陸交通網や商業活動の発展による都市生活者の増加が、貯蔵用・調理用・醸造用として優れた備前焼の壺・擂鉢・大甕の需要を増加させたことが背景にあると推定されている。

流通範囲の拡大

 14世紀前半を中心とする時期、備前焼の窯は標高をますます上げ、熊山山上にも迫ろうかという海抜400メートル以上のところにも築かれるようになる*4。そして窯傾斜をよりきつくし、より高温での焼成とし、黒灰色のものに茶褐色のものが混じるようになる。また窯跡の状況から、一窯での焼成量、一か所での焼成回数ともに増加したと推定されている。

 生産器種は完全に壺、擂鉢、大甕の三種に限定されるが、概して重厚かつ堅牢。そして壺・大甕の口縁部はほとんどが玉縁状となり、壺の装飾法は櫛による直線文となる。

 この時期の備前焼出土遺跡数は、全国で100カ所以上とされる。近畿以西のほとんど全ての府県から出土し、はるか沖縄県今帰仁城跡からも擂鉢が出土している。その理由として、備前焼の品質向上にともなう需要の増加もあるが、生産地周辺の水陸交通へのアクセスが有利であった点が挙げられている。

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 古代以来、山陽道は熊山の北側を通っていたが、13世紀後半になり、備前焼の生産地である伊部地方を通るようになった。また水運については、南東から片上湾がすぐ近くまで入り込んできている。西の吉井川についても約5キロメートルほどの至近距離であった。出土例も、港湾や交通路を控えた集落跡からのものが圧倒的に多いとされる。

 備前焼の壺や大甕の用途は、種籾の貯蔵や浸種、胡麻油・葉茶・味噌・漬物などの容器、あるいは酒の醸造用として使われたと考えられている。また骨壺として用いられていた出土例もある。

 またこの時期では、絶対年代が判定できる資料も見つかっている。和歌山県白浜町大古の長寿寺境内から出土した推定高約70センチメートルの備前焼大甕には、菊花・僧・魚などの文様とともに「備州国住人、香登御庄」「暦応五年」の銘文があり、暦応五年(1342)の製作であることが分かる。

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 さらに、愛媛県大洲市西禅寺境内出土の大甕(高さ90センチメートル)には貞治二年(1363)の銘が刻まれている。甕の中からは坐禅姿の白骨がみつかっており、寺では開山の真空妙応が入寂したものと伝えられているという。

文献に描かれた備前焼

 正安元年(1299)に完成した『一遍上人絵伝』第4巻第3段「福岡の市にて難に遇ふ」の場面には、備前焼が描かれている。

 すなわち、背景として描かれている掘立小屋の店舗群では米・日用雑貨・衣類・生鮮食料品などが売られているが、その中に商品として備前焼らしき大壺や、それを容器として他の商品を商っている店も見られる。備前焼の生産地である伊部から約8キロメートル南西の福岡の市でも、備前焼の販売が行われていたことが分かる。

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 応安四年(1371)、九州探題として任地に赴く途中の今川了俊も紀行文『道ゆきびり』に、備前焼生産地の様子を記している。

さてかゞつといふさとは、家ごとに玉だれのこがめといふ物を作ところなりけり、山の尾ごしの松のひまより海すこしきらきらとみえておもしろく、其日はふく岡につきぬ、家ども軒をならべて民のかまどにぎはひつゝ、まことに名にしおひたり

 当時、香登荘域に属していた伊部では、どこの家でも自然灰釉のたっぷり流れた小甕(壺)を生産していた様子や、そこからそれほど遠くない福岡の町が繁栄していた様子を知ることができる。

室町・戦国期の備前焼

 15世紀後半を中心とする時期、備前焼の窯は搬出に都合の良い各山麓や浦伊部地区に築かれ、そこに土や薪を逆に運んでくるようになった。窯の形式は以前と同様の半地下式であったが、長さ30~40メートル、幅2.5~3メートルと大規模で、修理しては使用する長期定住型となった。

 窯の立地は、室町末期に興る大窯とは目と鼻の先で、西大窯の近くに坊ガ谷窯、北大窯の近くに不老山窯、南大窯の近くに姑耶山下窯・浦伊部山崎窯というふうに数カ所に集結している。

 生産器種は、大別すれば壺・擂鉢・大甕という備前焼の伝統を踏襲するが、形・大きさ・装飾などにはかなり多様性がみられるようになる。それぞれの器種に大小各種のサイズが登場するのはもちろん、壺肩部の装飾は櫛目波状文が一般的となり、双耳・三耳・四耳などの耳付きも盛行する。

 焼色も時代が進むと、まずほとんどが酸化炎焼成の赤褐色・茶褐色・黒褐色などといった、いわゆる備前焼色を呈するようになる。

室町・戦国期の流通と用途

 この時期は販売量も一層増加したとみられ、出土遺跡は近畿以西を中心に260カ所以上にのぼり、西日本のほぼすべての中世遺跡において高い確率でみられるという。一方で、それら遺跡における常滑焼などの他窯製品の比率は格段に下がっており、当時の備前焼が西日本における大型の生活陶器のトップシェアを確立していたことが分かる。

 備前焼は伊部港から積み出され、海路でも各地に運ばれた。香川県小豆島東方約6キロメートルの海中にある水ノ子岩沈船遺跡からは、14世紀中頃の備前焼が大量に見つかっている*5

 文献資料でも、文安二年(1445)における関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』に備前焼の船舶輸送が記録されている。すなわち、この年の六月から十二月の7カ月間に、伊部に船籍を持つ船が24回にわたり兵庫北関に入港しており、積載されていた「ツホ(壷)大小」(備前焼とみられる)の延べ数量は、総計で1000個以上にのぼっている。船の中には兵庫南関を通ったものや、南北いずれも通らなかったものもあったとすると、かなりの量の備前焼が動いていたと考えられている。

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 兵庫を通過した備前焼のうち、消費地である京都方面に運ばれた備前焼も多かったと推定される。天文十四年(1545)、京都では備前壷役銭の権益をめぐり関白家と鷹司家が争っており(「一条家文書」)、備前焼畿内への流入量の多さをうかがうことができる。

 戦国期、城の遺跡からも備前焼が出土している。播磨国三木城(兵庫県三木市)から出土した16個の備前焼大甕は、その一つから炭化した大麦が見つかっており、同じく播磨国の感状山城跡(相生市)からは塩漬けのシシ肉を貯蔵していた備前焼大甕が出土している。いずれも飲食物貯蔵用として備前焼の大甕が用いられていたことが分かる。

 また山城跡からは備前焼の擂鉢も多数発見されているという。調理用途とみられるが、一方で、鉄炮用の火薬を調整するために使われたものである可能性も指摘されている。

備前茶壺

 備前焼と茶の関係では、最初に葉茶壺としての用途が史料にみえる。

 応永十三年(1406)四月八日、京都の公家山科教言は「備前茶壺」2個を、1つ百十で購入。翌月の五月六日にも、「備前茶壺」を四百五十で買っている(『教言卿記』)。15世紀初頭、すでに備前壺が茶壺として京都で売られていたことが分かる。さらにその壺は、公家がわざわざ日記に記すほどの価値を有していた。

 一方で、15世紀前半頃の成立といわれる往来物『桂川地蔵記』には、下記のようにある。

又香々登、信楽、瀬戸ノ壺ニハ伊賀、大和、松本、粟津ノ木前、簸葛*6等を納ル

 香々登(備前焼)の壺が信楽・瀬戸の壺とともに日用の茶壺として使用されていたことがうかがえる。ただ、使われ方としては、あくまで茶葉を入れる容器以上のものではなかったことも分かる。

茶陶として使われた備前焼

 16世紀初頭前後、備前焼は葉茶壺だけでなく茶陶としても用いられるようになる。文亀二年(1502)に没した茶人村田珠光が弟子の古市播磨に与えた手紙には次のような一文があり、備前焼を茶陶として使用するに際しての資格や心構えのようなことが述べられている。

・・・冷えかるゝと申て初心の人躰が備前物、信楽物など持ちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也・・・

 珠光から少し後、能役者・能作者の金春禅鳳は著作『禅鳳申楽談儀』の中で、下記のように記す。

伊勢物、ひせん(備前)ものなりとも、面白くたくみ候ゝ、まさり候へく候

 当時はまたまだ唐物全盛であった。しかし、その時代の中でも、上手に道具を立てさえすればあまり茶道具らしくはない備前焼でも、結構使えるものである、と禅鳳は記している。つまり、16世紀初頭においては、備前焼は茶陶としては一般的でなかったらしい。

 とはいえ、大永五年(1525)十二月十八日の「長蘆寺校割帳」(『大徳寺文書』)には備前焼水指、享禄元年(1528)十一月二十九日の同文書には備前焼建水が、茶席での用途を具体的に表した名称でそれぞれ初出する。これらは、最初から茶陶として生産された備前焼とは考えられていないが、生活雑器としての備前焼が茶陶に転用されはじめていることがうかがえる。

 元亀元年(1572)十二月十三日朝、堺商人今井宗久は自亭に天王寺屋道叱・山上宗ニ・津田宗及を招きいて茶会を行っているが、その際に「ヒセン(備前)水指」が使われている(「今井宗久茶湯日記書抜」)。同じく堺商人津田宗及の茶会でも、たびたび「備前水下(建水)」や「備前水指」が用いられている(「他会記」)。

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参考文献

伊部南大窯跡
室町期から江戸期にかけての窯跡。多くの備前焼の破片も散乱している。

広島県立歴史博物館展示の備前焼の大甕

広島県立歴史博物館展示の備前焼の壷

広島県立歴史博物館展示の備前焼のすり鉢

備前焼の水指 16世紀後半
メトロポリタン美術館公式サイトより

備前焼の茶入 17世紀
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

備前焼の茶入
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

*1:便宜的に「瓶」を用いた。実際は瓦にょうに「并」。

*2:便宜的に「瓶」を用いた。実際は瓦にょうに「并」。

*3:移転の背景には、原料土と燃料の枯渇があったと推定されている。

*4:代表的な窯にグイビガ谷窯(備前市伊部)が挙げられる。

*5:内訳は擂鉢77個体、捏鉢2個体、大型壺68個体、中型壺2個体、小型壺1個体、各種の甕類などのほか、多量の備前焼陶片が採集されている。

*6:いずれも悪茶