美濃焼の一種。長石を釉薬とした白いやきもの。慶長五年(1600)までには生産が始まっていたとみられる。器種は大きく分けて、白磁や染付といった中国陶磁器を意識した丸皿などの量産品と、茶碗・鉢・水指などの茶陶製品がある。初めて筆による絵付けがなされたやきものとしても知られる。
志野のバリエーション
志野は、中国からもたらされた白磁を模したものであるといわれる。志野の中には、白磁の皿を写したと思われる長石釉の掛かった丸皿が存在しており、この白磁を起源とする説を裏付けている。
志野は黄瀬戸や瀬戸黒に比べて多様でり、今日では無地志野、絵志野、練上志野、志野織部、鼠志野、赤志野に分類されている。
無地志野はその名の通り、文様のない志野を指す。絵志野は文様が描かれたものを指し、志野の大半はこれに属する。絵の題材は秋草、橋、屋形、垣、亀甲などがある。
練上志野は練込志野とも呼ばれ、もぐさ土と種類の異なる色の付いた土を練り混ぜることで色土が荒い縞模様となってあらわれる。志野織部は大窯ではなく連房式登り窯において焼かれた、織部のような絵付けがなされたものを指す。
鼠志野は「鬼板」という酸化鉄の泥漿を用いてつくられる。ロクロで引き上げた素地に鬼板を化粧掛けし、その上に長石釉を掛けてから焼成すると、鬼坂が発色して鼠色になる。また、化粧掛けした鬼板を線彫りすることで、高麗青磁のように文様を表すことが可能となる。しかし、釉薬の掛かり具合や炎の加減によって赤く発色することもあり、これを赤志野としている。
志野の生産年代
紀年銘資料では、慶長十年(1605)銘志野扇面形向付の存在が知られる。このタイプの向付は、元屋敷窯(岐阜県土岐市泉町久尻)の大窯で焼成したものと同形であり、大窯最終末の製品であるとされる。そのため、志野の発生は慶長十年を遡ることは確実とみられている。
消費遺跡の出土状況をみると、岐阜城千畳敷遺跡の発掘調査では、岐阜城が落城する慶長五年(1600)を下限とする遺構から志野と同時期に焼成された擂鉢が出土しており、この時点には生産されていた可能性が高い。また滋賀県の大津城は、関ケ原の戦いの前哨戦で廃城となるが、その直後の整地層から志野銅鑼鉢や角向付が出土している。ただし大坂城の発掘調査では慶長三年(1598)を下限とする豊臣前期の遺構からは志野は出土しておらず、慶長三年に大坂城三の丸工事に伴い大規模な整地が行われた後の豊臣後期に属する遺構や層位から志野が出土している。
以上の状況から志野の発生は、慶長三年(1598)以降、慶長五年(1600)までとする考え方が示されている。
一方で志野が天正年間末頃には存在していた可能性を示す資料もある。『松屋会記』天正十四年(1586)三月二日郡山曲音会において「セト白茶碗」という志野らしき茶碗がみえる。さらに、天正十三年に焼失した根来寺坊院跡の焼土層から志野の丸皿の出土があり、天正十八年(1590)に廃絶した八王子城御主殿跡からは、遺構埋土の包含層から志野丸皿が出土している。
美濃窯での生産状況と新たな技法
16世紀末ごろ、美濃国の元屋敷窯(岐阜県土岐市泉町久尻)では、黄瀬戸、瀬戸黒、灰志野*1を引き続き生産するなかで志野が登場する。端反皿、菊皿の小皿を中心に、黄瀬戸や灰志野と同じ形の銅鑼鉢や入隅四方形の角向付が生産された。
天目茶碗は少なくなるものの、灰釉小皿を大量に生産しており、全体的な傾向としては前段階と同様に新しい茶陶や懐石用食器の生産量はそれほど多くはないとされる。この時期に操業した定林寺西洞1号窯は、典型的な瀬戸黒とともに志野では端反皿と菊皿、銅鑼鉢、半筒形向付を生産しているが、その量は天目茶碗や小皿などと比べて少ない。
17世紀に入った直後、やきものの生産のあり方が一変するという。元屋敷東3号窯で志野の量産が始まると、それまで主要な器種であった天目茶碗の生産量が2%に、小皿も15%に激減する。また灰釉や鉄釉の使用が減り、全体の製品のうち77%に長石釉を用いる。そして茶の湯に関係するやきもの、特に鉢や向付の生産に主力を置き、実に全体の55%を占めるようになる。
茶碗では沓形をした織部黒茶碗が登場するとともに、鉄絵(酸化鉄を含む顔料を用い筆で文様を描く技法)を用いた志野茶碗が生産される。また志野では茶入を除いて、茶碗、水指、花入、香合、香炉、向付と茶の湯に用いるほとんどの器種が生産された。乳白色の釉下には、草花、樹木、山水、水鳥といった具体的な文様に連弁や檜垣などのパターン化した文様を組み合わせた鉄絵を描いている。
慶長十年(1605)頃に連房式登窯が採用される直前、元屋敷東1号C窯では志野茶碗にも沓形を採用し、向付の文様も胴部や口縁部に列点や檜垣といったパターン化した鉄絵を密に施すようになる。
そして成形と施釉技法にも重要な変化があらわれる。成形では、型打ちによる角向付は生産されなくなるが、替わって扇形という具象的な器形をもつ向付を型打ちで生産するようになる。
またこの頃に一定量の生産が確認できるようになる鼠志野では、特に大鉢で、釉を掛け残して余白を設ける施釉技法が登場する。余白には鉄絵を描き、あるいはそれを何かに見立てて器全体の文様を構成するというように、釉薬を文様として用いるようになる。
このふたつの変化は、後の織部に多用される技術となる。
参考文献
- 加藤真司 「志野と織部の生産について」(財団法人出光美術館 編 『志野と織部』 2007)
- 財団法人出光美術館 編 『志野と織部』 2007
- 西田周平 「桃山茶陶と近代陶芸の研究」 (2021年3月期 関西大学審査学位論文)
*1:長石釉に灰分を多く含むため青味がかった釉調で、器形は黄瀬戸に類似する。