戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鹿老渡 かろうと

 安芸国倉橋島の最南端の港町。かつては島であった高見山との間に形成された陸繋砂州上に作られた。芸予海峡のほぼ中間に位置し、16世紀後半頃から活発化しはじめた沖乗り航路の潮待ちの停泊地として利用されるようになったとみられる。

近衛信伊の停泊

 文禄三年(1594)四月、後陽成天皇の勅勘を蒙り薩摩国坊津に流された前左大臣・近衛信伊は、その日記である『三藐院記』に坊津までの道中について記している。

 二十一日の午刻(正午前後)に船で安芸国蒲刈に着いた信伊は、「ナニノ無興島也」と不満を述べながらその日は蒲刈の宿に逗留した。翌日朝に蒲刈を出船し、午刻「からうと」に停泊。ここで潮待ちをして晩に伊予国津和地島に着いている。この「からうと」が鹿老渡の初見史料とされる。

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 すでに16世紀末には蒲刈と津和地を結ぶ航路が存在し、その中間の鹿老渡が潮待ちの停泊地となっていたことがうかがえる。

 天正十六年(1588)五月、薩摩から上洛する島津義弘も沖乗り航路を採用。周防国屋代島に停泊した後、伊予国二神島津和地島の傍らを抜けて、さらに蒲刈を通過して高崎に停泊している。鹿老渡には着岸していないが、潮の状況によっては、鹿老渡に進路をとることもあったのだろう。

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江戸期の開発と繁栄

 元和三年(1617)八月十二日、朝鮮通信使の一行が日没のため鹿老渡に停泊し一夜を明かした。同使節の正使をつとめた呉允謙は『東槎上日録』で以下のように記している。

夕食後、副使・従事官と下船して海岸の砂の上に坐る。浦辺に山麓の見晴らしの良い処があり、三人とも駕籠に乗って登り眺める。久しく船上にあってすこぶる気分がとどこおっていたので、ことに胸襟のひろくゆたかになるのを覚えた。しばらくして船に還る。この夜の月色は以前にも増して良い。従事官と久しく船上に坐して月を眺め琴を聞く。夜ふけて十二時に至る。可留(鹿老渡)島は周防(安芸)州に属し、村家はない。

 鹿老渡は停泊地として利用されていたが、当時はまだ人々が定住していなかったことが分かる。

 鹿老渡に港町が整備されるのは、享保十五年(1730)のこととなる。元文年間(1736~1741)の成立とされる「芸州倉橋浦風土記」によると、享保十五年以前においても、暴風の時に大小の船舶が難を避けており*1、「工商若し斯の湊に売買せば商旅四方より市を成す」こと疑いなしとして、倉橋本浦の商工業機能を移す計画があった。

 しかし許可がおりないまま時が移り、享保十五年に至って本浦の「産業日夜に衰えるを以て」ついに36名の本浦商工業者が庄屋林幸右衛門に相談し、春日神社の神意を受けて移住を決意したという。背景には、沖乗り船の寄港を増やし、倉橋本浦の造船業を活性化させるという目的もあったとされる。

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 その後、鹿老渡は港町として発展。宝暦十四年(1764)正月六日に鹿老渡に寄港*2した朝鮮通信使の日記に、本浦住民の移住から37年後の鹿老渡の様子が記録されている。

 朝鮮通信使の正使趙済谷は『海槎日記』の中で、家々が狭いところに並ぶ様子は「頗(すこぶ)る櫛比(しっぴ)を為す」ようで、商船が泊まり「生涯(経済)有裕の処」であろうと記す。また各家には蘇鐡(ソテツ)と躑躅ツツジ)が植えられているが、日本には冬がないのかと訝っている。

 また従事官の書記であった金仁謙の『日東荘遊歌』には、馬上才と典楽たちが「青楼」(遊女屋)に入ったという詞がある。そこはぜいたくな作りで庭園もよく整備されていて、もしわが国にこのような施設があれば遊客が多いことであろうと感想を洩らしている。

 なお趙済谷が見た鹿老渡のソテツは、家の繁栄を象徴するものとして一般に珍重された。ただ、ソテツの自生地である日向国は鹿老渡との交流が知られる。鹿老渡に現存する宮林家住宅は、日向地方の木材を扱った商人・宮林家が江戸末期に建築した平屋建ての住居であり、参勤交代を行う日向の大名も寄港の際にしばしば宿にしたと伝えられる。

参考文献

  • 倉橋町史』通史編 2001
  • 倉橋町史』資料編Ⅱ 1991
  • 山内譲 『中世瀬戸内の旅人たち』 吉川弘文館 2004

鹿老渡が栄えた江戸期に遡る宮林家住宅。現在は旅館。

鹿老渡の町並み

鹿老渡のなまこ壁

鹿老渡のなまこ壁

鹿老渡の遠景

鹿老渡の信順寺と境内のソテツ

鹿老渡の遠見番所跡から眺めた伊予国忽那諸島

*1:例えば元禄四年(1691)、筑前国柳川への上使となった杉山久助と瀧野平左衛門の2名は、帰途の五月六日に津和地島を経て鹿老渡に一泊。翌七日、蒲刈に渡っている。

*2:伊予国津和地島を出発して安芸国蒲刈三ノ瀬を目指していた朝鮮通信使の大船団が、折からの風雨と波浪に苦しみ、午後になって鹿老渡に寄港。九日まで滞在している。