呉衆・山本氏の祖。南北朝期、北朝方伊予守護・仁木義尹の属し、河野通直ら伊予南朝方と戦った。戦国期の山本氏当主・山本賢勝も、「山本四郎」と呼ばれている。
北朝方の伊予衆
貞治三年(1364)、伊予国では北朝方の伊予守護・細川頼之の侵攻により有力豪族・河野通直をはじめとする南朝方が伊予を追われていた。これに対し、応安元年(1368)、河野通直は呉や能美島、波多見島、屋代島など瀬戸内海各地に逃れてた南朝方伊予衆を糾合して伊予へ帰還し、北朝方伊予守護・仁木義尹の軍勢を駆逐した。
『予章記』によれば、この時北朝方に味方した伊予衆として乃万(野間)氏、多賀谷氏とともに「山本四郎」の名が見える。
伊予衆の北上
南朝方の勝利により、これらの諸氏は逆に伊予を追われる。多賀谷氏は、かつて南朝方に奪われた蒲刈、倉橋を奪回して安芸国に北上した。野間氏も安芸国矢野に進出した。山本四郎も、南朝方の二神氏、南方氏が去った呉に北上したものとみられている。
その後、 『鹿苑院殿厳島詣記』によると、康応元年(1389)三月十日、音戸瀬戸にさしかかった足利義満一行のもとに多賀谷某が来て、大内義弘遅参の理由を伝えている。呉に拠点を移した山本氏も、この頃には大内氏の傘下に入っていたものと考えられる。