戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

能美 兵庫助 のうみ ひょうごのすけ

 竹原小早川家臣。安芸国能美島を本貫とする能美氏の庶流とみられる。

大永年間の戦い

 大永三年(1523)六月、出雲国尼子経久が南下して安芸国に侵攻。大内氏安芸国に支配の拠点である東西条鏡山城を攻略した。芸南の諸勢力も尼子方につく中、竹原小早川氏は大内方にとどまり、瀬戸島(現在の呉市倉橋島北部)を拠点に尼子方の野間氏らと対峙していた。明けて大永四年(1524)、大内方は漸く反撃に転じつつあった。

 大内氏の本国である周防国と接する安芸国佐西郡では、厳島神主・友田興藤廿日市桜尾城に篭って大内方に抵抗を続けていた。六月五日、竹原小早川弘平は佐西郡方面に派遣していた重臣・乃美賢勝に対し、援軍を派遣したことを伝えている。

 この援軍の一人として能美兵庫助がみえる。他には倉橋右馬助、長浜、および桧垣大四郎・神兵衛ペアがおり、それぞれ1艘ずつ、自ら乗船して出陣するよう指示されていた。小早川氏からも1艘出ており、計5艘が佐西郡の賢勝のもとに向かった。

能美仲次との争論

 能美兵庫助らが佐西郡に出陣する少し前の大永四年(1524)三月、大内氏と竹原小早川氏の間では、まさに「能美兵庫助方儀」が懸案となっていた。これは竹原小早川氏の被官である兵庫助と、大内氏の被官・能美仲次による争論を指す。

 能美仲次の被官・渋屋の言うところによれば、当時仲次が「足よわ」(老人または婦女子の意味か)に預けていた200目の畠について、兵庫助方が自分たちに与えられるべきと異議を申し立てていた(「乃美文書」)。

 竹原小早川氏は、大内氏重臣陶興房にこの件についてたびたび働きかけを行っていたらしい。興房は家臣・肥留景忠を取次としてこの件に対応しており、小早川弘平と乃美賢勝それぞれにに対して、能美氏の者が異議を申し立ててもしっかり対応する旨を伝え、「早々有帰嶋之条」を要請している。

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参考文献

  • 下向井龍彦「中世の呉」(呉市史編纂委員会編『呉市制100周年記念版 呉の歴史』)2002
  • 「乃美文書正写」(広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅴ』 1981)

廿日市市極楽寺山からの眺め。厳島をはじめ佐西郡の海域を見渡すことができる。