戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

能美 左馬允 のうみ さまのじょう

 安芸国能美島土豪。防芸引分では、毛利氏に協力して能美島の調略を行った。後に能美島を支配した来島村上氏に仕えたか。行動の詳細は不明ながら、来島村上氏が毛利氏から離反した際、関係者の話題にあがっている。

毛利氏への協力

 天文二十三年(1554)、毛利氏が大内氏と断交して安芸国南部に侵攻(防芸引分)。「能美衆」はいったんは毛利方についたものの、人質を見捨てて大内方に復帰した(「白井文書」)。

 これに対し同年九月、毛利氏や小早川氏、阿曽沼氏の軍勢が能美島に侵攻。二十九日の合戦で多くの能美勢が討ち取られた*1*2*3。九月三十日、元就・隆元父子が、厳島社家・野坂房顕に「能美之儀」がうまくいって本望だと伝えているので(「厳島野坂文書」)、毛利方の勝利で決着したと思われる。

 そんな中、能美左馬允は毛利氏に味方した。天文二十四年(1555)四月、毛利元就・隆元父子は左馬允と毛利家臣・大多和就重の両名に対し、能美島の三吉、高祖、高田、中村、沖浦の百姓への調略を命じている(『閥閲録』巻123)。大内方地域*4の収拾を図ったものと推定される。

 この後能美島は、天文二十四年(1555)十月の厳島合戦等で毛利氏に合力した来島村上氏の所領となった。

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厳島神社大鳥居の身柱

 永禄四年(1561)、厳島神社の大鳥居造立が行われた。能美島からは大原と中村で2本の身柱を切り出して運ぶことになった。動員された人数は延べ5173人、船は大小合わせて39艘。内、6端帆の船1艘を桜尾城主・桂元澄が出した(「大願寺文書」)。

 この大鳥居身柱の津出しの際に、能美左馬允が馳走を申し出たらしい。毛利隆元は、以前からの尽力と合わせて「一段祝着」であると悦び、桂元澄に対して、その旨を左馬允に伝えるよう依頼している(「大願寺文書」)。防芸引分時の左馬允の働きが、隆元には印象的だったのかもしれない。

来島村上氏の離反と能美島

 天正十年(1582)三月、来島村上氏織田氏への寝返りが、毛利氏の知るところとなった。能美島に近い宮島(厳島)では、毛利方による築城を含めた防衛準備が進められ、厳島神社宝物も対岸の廿日市桜尾城に移された。(「厳島野坂文書」)。

 この少し前の同年正月二日、能美左馬允が宮島に渡海してきて、何事かを厳島社家・野坂房顕・元行父子に伝えたらしい。三月中旬には、不穏な状況が伝わってきたのか、雑人たちが島を退去し、四月五日には女性や子供が島を離れて避難したという(「厳島野坂文書」)。

 毛利方では、来島村上氏当主・村上通総(通昌)への引き止めを行う一方で、同氏の重臣である村上吉継と村上吉郷への働きかけか行われた。交渉役は、能島村上氏村上武満と小早川家臣・乃美宗勝が担当。四月二十四日、両名から毛利陣営に留まる旨の起請文が提出された。村上吉継は、元亀二年(1571)に能美右近助を率いて伊予の下須戒で戦っており、能美島と関係の深い人物であった。

 その後、村上武満乃美宗勝によって、能島村上武吉村上吉継伊予国関係者の調整を図る場が伊予国道後でもたれた(「乃美文書」)。その際に、村上吉継から能美左馬允のことについて何事か申し出があったらしいが、詳しい内容は分からない。

参考文献

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能美島中町の八幡宮厳島神社大鳥居の身柱の1本は、この神社の森から切り出されたと推定される。

 

*1:九月二十九日の合戦では、毛利家臣の飯田義武、三増直近らが能美島で合戦。三増直近は敵の宗徒を討ち取った(『閥閲録』巻132、巻146)。

*2:小早川氏では、高崎武忠の僕従が首級を挙げたことで、小早川隆景の感状を得ている(「京都大学文学部所蔵文書」)。井上弥四郎も二十九日の合戦で敵一人を討ち取り、隆景の感状を得た(『閥閲録』巻11)。一方、檜垣新太郎は、船に敵が乗り込んできた際に、討ち死にした(『藝備郡中筋者書出』)。ただし小早川隆景が遺児・檜垣槌法師に宛てた書状の日付は九月十九日となっている。二十九日よりも前に、別の合戦があったのかもしれないが、写す際に二十九日を十九日と誤った可能性もあるか。

*3:阿曽沼勢も敵数人討ち取る功績を挙げ、隆元・元就から感状を得ている(『閥閲録』巻48)。

*4:これらの地名のうち、中村を知行していたとみられる能美房次は、弘治二年(1556)十月の段階で大内方に属している(「山野井文書」)。