戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

新里 隆溢 にいざと たかみつ

 大内家臣。厳島神領衆。官途名は若狭守。新里若狭守の子か。大内氏赤間関支配を担い、後に安芸国佐西郡支配に関与した。

大内氏赤間関役人

  天文八年(1539)度の遣明使副使・策彦周良の記した『初渡集』によれば、天文十年(1541)七月十日、復路で豊前国宮浦に停泊した一行のもとに、「赤間関役人新里代」が帰国を祝しにやって来たとある。

 策彦らは十一日に赤間関に帰港し、十六日に「城主新里」を訪ねた。赤間関出立の際には、新里若狭守と矢田備前守増重が手下を派遣して埴生まで護送している。

 このことから天文十年当時、新里若狭守(隆溢)は、大内氏領国の要港・赤間関にあって「赤間関役人」として代官的地位にあったとみられる。隆溢は義隆直属の被官として*1赤間関直轄支配を担っていたと思われる。

山里納銭の管理

  その後、隆溢は安芸国佐西郡に戻り、大内氏の桜尾城督・鷲頭興盛のもとで、安芸国佐西郡の支配に関わった。天文十七年(1548)十一月から新里若狭守(隆溢)と、その被官・脇弥左衛門尉らが厳島社家への山里(安芸佐西郡山間部)納銭の勘渡を行っていることが確認される(「野坂文書」)。

 この山里納銭は、廿日市において材木などの物資を売却し、その代価を納入していた。しかし、納銭を収取する社家衆が、銭を選んで受け取ると主張。これに対し、山里刀禰中は「迷惑之通」であるとして愁訴する事態となった。この時、山里刀禰中の訴えを大内氏奉行人に取り次いだのが隆溢だった。

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 この訴えを受理した大内氏は、安芸国において通常売買に用いている銭貨の質程度ならば受け取るべきであると裁定。奉行人の龍崎隆輔と小原隆言を通じて厳島社家三方中に伝えている(「厳島野坂文書」)。

厳島社惣公文

 天文二十年(1551)八月二十八日、陶晴賢大内義隆に対して挙兵し、大寧寺の変が勃発する。挙兵に先立つ八月二十日、陶氏被官・大林某が厳島を占領。この時、「惣公文新里」が藤懸からやって来て大林とともに桜尾城督・鷲頭興盛を説得して、城を明け渡させている(『房顕覚書』)。

 興盛退去後の桜尾城には陶氏被官・江良賢宣が入った。天文二十二年(1553)四月、陶氏奉行人の伊香賀房明、毛利房継、江良房栄の三名が連署でもって、新里若狭守に対して山里納銭の社納を命じている(「厳島野坂文書」)。新任の賢宣とともに、引き続き厳島神領の支配を担ったものと推定される。

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毛利氏に降る

 天文二十三年(1554)五月十二日、毛利氏が安芸国内の大内氏拠点への侵攻を開始。その日のうちに佐東金山城、己斐城、草津城を落とし、廿日市にまで進軍する。

 当時、桜尾城には陶被官の江良賢宣と毛利元堯、神領衆の「己斐」(己斐豊後守か)、そして「新里」(隆溢か)がいたが、毛利方の吉川元春熊谷信直、洞雲寺住職の説得に応じて城を明け渡した。江良賢宣と毛利元堯は周防に撤退したが、己斐と新里は毛利氏に降り、厳島の城に入ることとなった(『房顕覚書』「洞雲寺文書」「熊谷家文書」『森脇覚書』「萩藩閥閲録」巻62))。

 翌天文二十四年(1555)十月一日、厳島合戦において、隆溢も毛利方として戦ったとみられる。

 この合戦の最中、陶晴賢被官・柿並佐渡入道(柿並房友か)が自分の首を晴賢の首として持っていくように、新里被官・脇弥左衛門尉に申し出たという。弥左衛門尉は佐渡入道の首を包に入れて、毛利被官・児玉周防守(就方)に差し出したが、児玉周防守は首を請け取り、弥左衛門尉をも討ち取ったとされる(『房顕覚書』)。

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参考文献

  • 廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988
  • 須田牧子「中世後期における赤間関の機能と大内氏」(『ヒストリア』189) 2004
  • 廿日市町 編『廿日市町史 資料編Ⅰ』 1979
  • 藤田直紀・編 『棚守房顕覚書』 宮島町 1975

火の山展望台から見た下関(赤間関)と関門海峡

策彦和尚入明記初渡集 天文十年七月十六日条
国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:隆溢の「隆」は大内氏当主・義隆の編諱とみられる。