戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

江良 藤兵衛尉 えら とうひょうえのじょう

 陶氏被官。陶興房に仕えた。永正八年(1511)八月の船岡山合戦で活躍し、周防国都濃郡須々万に所領を得た。益田氏への使者も務めていることから、興房の側近であったと考えられる。

大内義興の上洛

 永正五年(1508)、大内義興足利義稙を奉じて上洛。陶興房も義興に従って上洛しており、これに同道した陶氏被官の中に江良藤兵衛尉もいたとみられる。

 しかし永正八年(1511)七月、義興らによって京都を追われていた細川澄元が、反撃に出る。同月十三日、細川典厩家の細川政賢と和泉国守護職細川元常を主将とする澄元方が、和泉国大島郡深井郷で管領細川高国の軍勢に大勝。

 八月には、澄元に味方する播磨国赤松義村の軍勢が、細川高国方の摂津国兎原郡鷹尾城を開城させた。さらに赤松勢は、摂津国の重要拠点である河辺郡伊丹城への攻撃も開始した。

 この戦況を不利と判断した将軍足利義稙管領細川高国大内義興は、八月十六日に退京して丹波に逃れた。代わって細川政賢、細川元常らが入京した。

船岡山合戦

 丹波の足利義伊方は、すぐに京都奪還に動いた。八月二十三日、管領細川高国が北山に本陣を敷き、大内義興は北山から進んで京都長坂口に布陣した。これを受けて、細川政賢は船岡山に本陣を構えた。

 翌二十四日、両軍は船岡山で合戦。細川澄元方は大敗し、細川政賢は京都小川橋で戦死した。一方で大内氏でも問田弘胤や宗像興氏が討死している。

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 この合戦に江良藤兵衛尉も参加。『房顕覚書』によれば、義興被官・能美肥前守と陶被官の江良藤兵衛尉、深野石見守は千本の在家に放火し、近江衆の「竹下」やそのほか数万騎を切り果たしたという。

 合戦後の九月十七日付で発給された陶興房からの感状には、「虎口」での戦いで志宇知源太の頸をとり、左手と左足を負傷したことが戦功として記されている。この功により、興房から「都濃郡須々万内廿三石之地」を与えられた(「風土注進案20当島宰判三見村」)。

 なお後年、都濃郡須々万の地で、江良氏は安芸毛利氏と一年弱の攻防を繰り広げることになる。

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益田宗兼への使者

 永正九年(1512)正月二十三日、陶興房は、同じく在京していた石見国人・益田宗兼に宛てて書状を送る。

 この時、大内義興の仲介で宗兼の長男又次郎が将軍足利義伊から一字を頂戴しており、興房は「誠千秋萬歳御太慶候」と祝意を伝え*1、あわせて、他の安芸・石見の国人たちの多くが帰国する中、京都にとどまっている事への感謝も述べている(『萩藩閥閲録』巻7)。

 なお、上記書状には「江良藤兵衛尉可申入候」とあり、藤兵衛尉が使者であったことが分かる。

参考文献

  • 鹿野町誌編纂委員会 編 『鹿野町誌』 1991
  • 藤井崇 『大内義興 西国の「覇者」の誕生』 戎光祥出版 2014
  • 藤田直紀・編 『棚守房顕覚書』 宮島町 1975

沼城跡から見た須々万本郷

*1:足利義伊から一字を頂戴した益田又次郎は、伊兼を名乗っている。