大内家臣。仮名は小太郎*1。官途名は勘解由左衛門尉。周防国大島郡島末庄を本拠とする長崎氏の当主。盛親の子で、重親の孫にあたる。
豊前国への出陣
明応九年(1500)十月二十五日、大内義興は、敵(大友親治・少弐資元ら?)が豊前国規矩郡門司六郷に侵攻したため、合戦必至とみて、勝親に出陣を命じている。勝親には「乗船」しての参戦が求められており、長崎氏の警固衆としての性格をうかがうことが出来る。なお、勝親と同じ屋代島を本拠とする櫛辺藤蔵人にも、同様の軍勢催促がなされている(「萩藩諸臣証文櫛辺家証文」)。
翌年の文亀元年(1501)七月二十三日、大内義興は豊前国馬岳城合戦で大友親治・少弐資元連合軍を撃破した。勝親は馬岳城詰口で高名を挙げ、周防守護代・陶興房の披露により感状を得た。興房の麾下で戦ったのかもしれない。
この合戦には、陶興房をはじめ、長門守護代・内藤弘春、豊前守護代・杉重清ら大内氏の重臣が投入されており、大内氏にとっては総力戦だった。九月、大内氏と大友氏の間で和睦が成った。
勝親の跡
系図によれば、勝親には小太郎という子がおり、その名から嫡子であったと思われる。しかし家督は助太郎(安親)が継いだ。永正七年(1510)十一月に、長崎助太郎が一族の長崎才徳丸(後の元康)を養子とすることを主家に申請している。
参考文献
- 和田秀作 「「譜録」長崎首令高亮及び山中八郎兵衛種房の翻刻と紹介」 (『山口県文書館研究紀要』第47号 2020)
- 藤井崇 『大内義興 西国の「覇者」の誕生』 戎光祥出版 2014
- 和田 秀作 編『戦国遺文 大内氏編 第2巻』 東京堂出版 2017
- 岡部忠夫 編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房 1983
*1:勝親の父とみられる長崎盛親も、文明二年(1470)九月の文書で小太郎と呼ばれている。