戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

宗像 興氏 むなかた おきうじ

 宗像社大宮司。氏定の子。照葉の父。宗像正氏(黒川隆尚)の養父。妻は陶興房の娘。周防大内氏の後援を受けながら、一族の氏佐と大宮司職をめぐって激しく争った。

宮司職をめぐる争い

 長享元年(1487)三月十五日、宗像社辺津宮遷宮を、宗像社大宮司・宗像氏定の嫡男、鶴千代丸が執り行っている。鶴千代丸は興氏の童名とみられる。「宗像宮社務次第」乙本によれば、父の氏定はこの2日後の同月十七日に死去したとされる。同年十一月、大内義興より「興」の偏諱を受けて興氏と称した(「訂正宗像大宮司系譜」)。

 以後、興氏は叔父の氏佐と大宮司職をめぐって争う。「宗像宮社務次第」甲本では「七十一代 興氏」、「七十二代 氏佐 強入部也」、「七十三代 興氏 還補也」、「七十四代 氏佐 強入部也」、「七十五代 興氏 還補也」とある。氏佐が宗像社に強行入部して大宮司職を奪い取り、興氏が還補する、ということが繰り返されている。

 氏佐は明応九年(1500)四月、宗像社領注文を作成しており、この時は大宮司であった可能性があるとされる(「余瀬文書」)。

 宗像氏と同じ筑前の領主・麻生興春が大内重臣・杉興宣に宛てた書状によると、宗像氏佐と(性未詳)弘清が「上意」(大内義興の意向)を請けずに大宮司職を競望。大内重臣の問田弘胤とその子興之は、「宗像方」(宗像興氏を指すとみられる)に味方するという状況にあった。

生涯雷の如し

 その後、氏佐との争いが一段落したのか、興氏は大内義興に味方して上洛。永正八年(1511)八月二十三日に山城国船岡山の戦いで討死した。

 元亀二年(1571)七月、宗像氏貞が父宗像正氏(黒川隆尚)の二十五回忌を営んだ際の拈香文に「永正第八歳仲秋廿三、其の祖、洛北の船岡山に向ひて戦骨を曝すの生涯雷の如し」とある(「仙巣稿」)。家督は、問田興之や陶興房らの尽力もあり興氏の養子である宗像正氏が継いだ。

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参考文献

  • 桑田和明 「戦国期における宗像氏の家督相続と妻女」(『むなかた電子博物館紀要 第4号』 2012)