戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

温科 盛長 ぬくしな もりなが

 大内家臣。仮名は弥四郎。官途名は弥左衛門尉。宗像社大宮司宗像正氏の与力となり、筑前立花山城攻めなど大内氏の北九州経略で活躍した。

宗像正氏との関係

 大永二年(1522)四月、温科弥四郎(盛長)は、宗像社大宮司・宗像正氏から宗像社領のうち、光岡村にあった宗像一族・嶺氏の所領から3町と屋敷1所を扶助として預けれた(「竹井文書」)。盛長は正氏から屋敷を預かり、光岡村に居を構えたとみられる。

 盛長は大内氏の家臣であったが、同じく大内氏に仕えていた宗像正氏に、与力として付けられたことによる措置と考えられる。

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安芸国鳥子城攻め

 大永年間、大内氏の軍勢は安芸国に侵攻し、安芸武田氏および出雲尼子氏方の勢力と激しく争った。

 大永七年(1527)二月九日、大内氏重臣陶興房率いる大内勢は、熊野要害を攻略(「石井英三家文書」)。三月、尼子方国人・阿曽沼氏の篭る世能鳥子城(広島市安芸区)を包囲した。三月八日から十八日にかけて、石見国人・益田伊兼や安芸国人・天野興定、大内家臣・脇房利、石井元家らの軍勢が城に猛攻を仕掛けた(「益田家文書」「右田毛利家文書」「萩藩譜録脇彦右衛門信之」「石井英三家文書」)。

 この大内方に盛長も参陣していた。三月十二日、温科弥四郎(盛長)は同城詰口において右頬に矢傷を負い、大内義興から直接感状を得ている(「竹井家文書」)。

 世能鳥子城は、阿曽沼氏の重臣・野村木工允が切腹し、降伏。阿曽沼氏は、大内氏に帰服した(『房顕覚書』)。

筑前立花山城攻め

 天文二年(1533)二月、黒川隆尚(改名した宗像正氏)は温科弥左衛門尉(盛長)に、「合力之地」として光岡村窪田1町、村山山郷弁済便分2町60歩の合計3町60歩、および村山山郷の屋敷1所を進めている。大永二年の時より60歩増加し、屋敷も光岡村から村山山郷に移った。

 翌月の三月二十二日、盛長は隆尚の指揮下で豊後大友氏の筑前支配の拠点・立花山城攻めに加わり、僕従が負傷。大内氏奉行人の貫武助・杉興重連署による感状を得た(「竹井文書」)。四月五日には、大内義隆が黒川隆尚による立花山城調略の成功を賞めている。この後、ほどなくして同城は陥落した。これにより、以後、北九州の戦局は大内方優勢に傾く。

 同年十二月、盛長はこれまでの軍役が評価され、大内義隆から糟屋郡院内(古賀市薦野、米多比など)と御笠郡諸田(筑紫野市諸田)5町を与えられている。筑前国糟屋郡の立花山城を落としたことで、大友氏は周囲の大友氏領を家臣に配分したものと考えられる。

弥四郎への譲状 

 天文二十一年(1552)三月、盛長は子とみられる弥四郎への譲状を作成した。この間、天文十六年(1547)、黒川隆尚が死去。天文二十年(1551)九月、大内義隆大寧寺の変で討たれるなど、盛長を取り巻く環境は大きく変わっていた。

 譲状には、豊前国京都郡下屋山村(京都郡勝山町矢山・上矢山)の田地4町分(15石足)は、宇佐宮へ7石5斗を渡すので、不足の分があると書かれている。天文二年(1533)に大内氏から与えられていた御笠郡諸田15石は、敵との境目で上表したとある。長門国美祢郡岩永別府(美祢市)と西授寺領の知行もあった。

 また盛長は大内氏からの感状、奉書数通も渡すので、奉公と共に「所々易地」が与えられるように、大内氏への愁訴が肝心と書いている。

 なお天文二十二年(1553)閏正月、盛長は大内義長から、先述の京都郡屋山村15石地(7石5斗社納)について、天文八年(1539)6月二十八日付の大内義隆の証判に任せて安堵されている。この所領については、一時争論があったのかもしれない。

盛長の死後

 弘治二年(1556)六月、宗像氏家臣団は、国分直頼が抱える後河原表屋敷について、親父以来の筋目であることは紛れがないので、「温科方」に返還するように命じている。「温科方」が誰であるかは不明であるが、親父以来の筋目とあることから、温科盛長の子とみられる弥四郎である可能性が高い。

参考文献