戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

照葉 てるは

 黒川隆尚の後家。宗像氏貞(鍋寿丸)の母。近世成立の史料では、大内氏重臣陶隆房の姪とされる。氏貞の家督継承に尽力した。なお「照葉」は、増福院の『山田地蔵尊由来記』にみえる名前。一次史料では、「大方殿」と呼称されている。

黒川隆尚に嫁ぐ

 「訂正宗像大宮司系譜」によれば、宗像興氏陶興房の娘(隆房の妹)との間に生まれた女子とされる。興氏の養子・宗像正氏(後の黒川隆尚)に嫁ぎ、鍋寿丸と女子をもうけた。隆尚は大内義隆から周防山口近郊の黒川郷を給付されているので、照葉も黒川郷で子らとともに暮らしていたと考えられる。

 天文十六年(1547)七月、夫の隆尚が死去。家督は隆尚猶子の宗像氏男(後に黒川隆像と改名)が継いだが、鍋寿丸方とは当初から対立があった。

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宗像への入部

 天文二十年(1551)八月、照葉の叔父・陶隆房が蜂起。九月一日、大寧寺に逃れた大内義隆が自害する。黒川隆像も義隆とともに自害した。「宗像記」「宗像記追考」では、この時、四郎(鍋寿丸)、母親、妹はともに黒川館にいたとする。

 鍋寿丸方は事変の直後から家督相続を目指して行動を開始した。隆尚旧臣である寺内尚秀、吉田良喜、国分直頼らが吉原善三郎や寺内秀郷に宛てた同年十月二日付の連署奉書によれば、同年九月十二日、「宗像四郎殿」(鍋寿丸か)が宗像に「強入部」し、鍋寿丸方が合戦で勝利している(「有吉文書」「新撰宗像記考証」)。

 大内義隆、黒川隆像の自害から間もない時期の入部であり、陶隆房により事前に計画されていた可能性が指摘されている。「宗像記」「宗像記追考」では隆像の自害後、隆房の計らいで母子が寺内秀郷とともに宗像に入部したとする。

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対立勢力の排除

 宗像には隆尚正室とその娘(隆像後家)がいたが、殺害された。確実な史料はないが、「宗像記」は鍋寿丸の母親が、「宗像記追考」は隆房が命じたとある。両記録とも殺害は天文二十一年三月二十三日夜とする。

 照葉は、鍋寿丸の相続に反対する宗像家臣の排除にも関与した。「宗像記追考」によれば陶氏の指示により、寺内秀郷が吉田佐渡入道、同内蔵丞らを誅伐。照葉は某尚職から報告を受け、秀郷に対して「うちはたし候て、ほんまう(本望)御うれしさにて候」と直接書状を発給している(「新撰宗像記考証」)。

 その後、隆像父の宗像氏続が天文二十二年十二月に、氏続の子(隆像の弟)の千代松丸がその翌年に殺害された(「新撰宗像記考証」)。これにより反対勢力はほぼ排除され、鍋寿丸の宗像氏家督相続が確立された。

岳山城の指揮

 弘治三年(1557)、鍋寿丸は元服して宗像氏貞を名乗る。永禄三年(1559)、氏貞は鳶ヶ岳城に入り、永禄五年に岳山城と改めた。城下の三郎村の内、川端というところに照葉の屋敷があったという(「宗像記追考」)。

 永禄十二年(1569)、毛利勢が筑前国に入り、大友方の立花城をめぐって攻防を繰り広げる。宗像氏貞は毛利氏に味方して、立花城攻めに加わっていた。これに対し大友勢が五月二日、筑前国に出陣。立花城との間で毛利勢を挟むように陣取り、四日、五日と宗像郡と糟屋郡の境目に放火した。

 大友勢の進出により、出陣中の氏貞勢と宗像郡内との連絡がつかなくなり、岳山城との連絡路も遮断された。しかし岳山城には照葉が在城し、緩み無く下知したので六日には連絡が通じるようになった*1。氏貞出陣中、照葉が籠城の指揮をとっていたことが分かる。

辺津宮本殿の竣工

 天正五年(1588)十一月、宗像氏貞悲願の辺津宮本殿の棟上げが行われた。照葉は棟上式や遷座式に、氏貞や塩寿(氏貞養子)、氏貞の妻、娘らと出仕した。

 なお両方の式での照葉(大方殿)の順位は、氏貞、塩寿に続いて三番目であった。家中での高い地位を知ることができる。また寄進なども行っており、個別の財力を有していたことがうかがえる。照葉は、これ以降史料にはみえなくなる。

参考文献

  • 桑田和明 「戦国期における宗像氏の家督相続と妻女」(『むなかた電子博物館紀要 第4号』 2012)

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宗像大社「本殿」 from 写真AC

*1:天正六年(1578)六月朔日、宗像社辺津宮本殿遷座式の日に作成された置札の一つに、永禄十二年当時の宗像氏の状況が記されている。なお、この史料では「大方殿様」と呼称されている。