筑前国の有力国人。大内家臣。官途名は兵部大輔、後に上野介を名乗った。麻生氏の竪系図では上総介弘家の子に配されている。一方で「麻生系譜 全」(『麻生文書』145)では、麻生家延の子としている。
宗像氏内訌への介入
永正八年(1511)以前、興春は宗像大宮司職をめぐる宗像氏の内訌に介入していた。興春が大内家臣・杉小次郎(興宣)に宛てた書状によれば、宗像氏佐と弘清が大内義興の意向に背いて大宮司職を競望し、これに対する「宗像方」(宗像興氏とみられる)に大内氏重臣・問田弘胤の子興之が味方するという状況にあった(「宗像神社文書」)。
興春は問田弘胤の要請を受けて興之に協力しており、神明に誓う旨を示した書状も大内氏に提出していたらしい。興春らの介入は功を奏し、最終的に興氏が宗像大宮司職を得た。
故実の伝授
永正十六年(1519)六月、大内義興は小笠原元長伝の「騎射秘抄」を書写し、これを興春に与えている。その奥書には、「此一巻、麻生兵部大輔興春懇望之間写訖」とあり、興春が故実伝授を要望していたことが分かる。
大野要害の攻略
大永年間、安芸国において大内氏と武田氏、尼子氏らの抗争が激化する。興春は大内方の一員として安芸国を転戦した。
大永四年(1524)五月、大内氏の重臣・陶興房が率いる軍勢は、武田氏に味方した厳島神主家の大野要害を包囲。興春は興房の指揮のもと、六日から十一日にかけて、同要害の水手や山手、屏涯などに攻撃を繰り返している(「吉田ツヤ家文書」)。大野要害攻めには、宗像正氏*1も加わっていた。
五月十二日、要害の守将・大野弾正少弼が陶興房に通じて、要害に火を放った。このため、後詰に来ていた厳島神主・友田興藤と武田光和の軍勢は敗走。大内軍は追撃して、7、80人を討ち取ったという(『野坂房顕覚書』)。
志芳方面への侵攻
慶雲寺(広島県東広島市黒瀬町南方)に伝わる「慶雲寺覚書」には、「筑前城主麻生上野介藤原興春」が生城山城(東広島市志和町志和東)に在陣していた大永六年(1526)二月九日に、生城山観音堂を建立したという棟札があったことが記されている。
生城山城は安芸国志芳の国人・天野氏の城だったが、同氏は尼子氏に属して大内氏に敵対したため、大永五年(1525)六月に居城・米山城を陶興房に包囲されて降伏していた。
この後志芳方面の大内方の押さえとして、興春が生城山城に入ったと考えられる。同年八月には、志芳荘別府(東広島市志和町別府)に武田氏の兵が侵入して天野氏と交戦しており(「天野毛利文書」)、志芳方面はなお大内方の最前線だった。
府中城の戦い
麻生氏の竪系図は興春について、「芸州府中」で討死したと注記している。安芸国府中城は、武田方の白井備中守らが籠城して頑強に抵抗し、享禄元年(1528)七月まで陶興房らが在陣していた。上記の「慶雲寺覚書」の棟札の内容をふまえると、興春は大永六年二月以降に府中城攻撃に加わり、享禄元年頃までに討死したと推測される。
なお「麻生系譜 全」では享禄三年(1530)二月二十三日に死去したとしている。この場合は、府中城で討死したわけではないことになる。
参考文献
- 川添昭二 「永正期前後の九州文芸の展開」(『中世九州の政治・文化史』 海鳥社 2003)
- 川添昭二 「筑前芦屋の時宗・金台寺過去帳について」(『九州中世史の研究』 吉川弘文館 1983
- 黒瀬町史編さん委員会編 『黒瀬町史 資料編』 2004
*1:宗像興氏の養子。後に黒川隆尚を名乗る。