戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

高橋 弘厚 たかはし ひろあつ

 石見国阿須那(現島根県邑南町)を拠点とした国人、高橋氏の一族。興光の父。官途名は治部少輔、後に伊予守。当主・高橋元光との関係は不明。名に「光」の字が無いことから、惣領家の出身ではなかったと考えられている。なお「弘」は、大内政弘からの偏諱とみられる。

船岡山合戦

 永正五年(1508)、大内義興足利義稙を奉じ、芸石衆(安芸・石見の国人衆)を率いて上洛。弘厚も高橋氏の上洛部隊の一人として義興に随行したとみられる。ただ、長期にわたる在京は、国人衆には大きな負担であった。

 永正八年(1511)八月、義稙と義興は細川澄元等の反撃にあい、丹波国に遁れた。大内義興の形勢不利を見た芸石衆からは「闕落」(戦線離脱)が発生し、大内方で問題化していた(「益田文書」)。実はこの時、吉川氏や毛利氏らとともに高橋氏本隊も、本国に帰還していたらしい(「石見吉川家文書」)。

 そんな中で弘厚は踏みとどまっていた。八月二十四日、義稙・義興方は船岡山合戦で細川澄元らを破って再度京都に入る。この合戦で弘厚は負傷しながらも活躍し、足利義稙から賞されている(「高倉文書」)。

興光の惣領家継承

 永正十二年(1515)三月、当時の当主・高橋元光が備後国入君(広島県三次市君田町)で討死した。大内義興毛利興元に対し、弘厚の子の大九郎興光が跡を継ぐよう将軍の御下知があったことを伝えている(「長府毛利文書」)。

 大内氏としては、義興と関係が深かった弘厚の子に跡を継がせることで、高橋氏との関係を深めたいとの意向があったと考えられる。

kuregure.hatenablog.com

大内氏と敵対

 享禄元年(1528)十二月、大内義興が死去した。出雲尼子氏の勢力と戦うため安芸国に出陣していた中で病状が悪化し、山口に帰国したものの回復しなかった。

 翌年の享禄二年(1529)四月、毛利氏の家中で「錯乱」が発生したが、直ぐに収拾された。大内氏の新当主・大内義隆は、小早川氏に対して「不慮之儀」の際の協力を要請している(『閥閲録』巻11)。安芸国北部に不穏な空気がただよっていた。

 同年七月、大内氏は高橋興光が知行していた豊前国仲津郡の15町を没収。さらに同年九月、高橋大蔵大輔の周防国玖珂郡楊井庄20石地と、弘厚が知行していた豊前国筑城郡広末名12石地を、安芸国白井光胤に与えている(『閥閲録』)。高橋氏の大内氏への敵対が、明確になったための措置とみられる。

 後年の毛利氏サイドの史料によると、安芸・備後・石見において尼子氏の勢力が強まると予想したのか、高橋弘厚は大内氏の莫大な恩を捨て置き、尼子氏に一味して大内氏の強敵となったという(「毛利家文書」)。

松尾城籠城

 大内氏と敵対した弘厚は、松尾城広島県安芸高田市美土里町横田)に籠城した。松尾城は、高橋氏の城郭の中でも突出した規模を持つ。城跡には、弘厚が大内方の攻撃に備えて臨時的に拡張したと思しき連続竪堀などの遺構が残る。

 享禄三年(1530)五月、大内氏重臣陶興房が毛利氏重臣志道広良に「松尾辺」の戦況を尋ねており、既に毛利氏による松尾城攻撃が始まっていたことが分かる(『閥閲録』巻16)。

 その後、毛利氏は備後国人・和智氏および大内氏重臣・弘中隆兼の援軍を得て、城を攻め崩した。弘厚は自害したという(「毛利家文書」)。七月、大内義隆毛利元就に対して「上下庄」の「進退」を了承しているので、この頃までに松尾城は陥落したとみられる。

高橋氏滅亡

 子の興光は、弘厚死後も阿須那(島根県邑智郡邑南町阿須那)の藤根城に立て篭っていた。しかし享禄三年*1ごろまでに、毛利氏に切腹させられた。弘厚の知行地だった阿須那、ならびに船木、佐々部、山懸などの高橋氏旧領は毛利氏の支配地となった(「毛利家文書」)。

参考文献

  • 安芸高田市歴史民俗博物館 編 『令和元年度企画展 「芸石国人高橋一族の興亡」』 2020
  • 秋山伸隆「高橋氏の滅亡時期をめぐって」安芸高田市歴史民俗博物館 編 『令和元年度企画展 「芸石国人高橋一族の興亡」』 2020)
  • 岸田裕之「芸石国人領主連合の展開」(『大名領国の構成的展開』 吉川弘文館 1983)

f:id:yamahito88:20210829163541j:plain

高橋弘厚が籠城した松尾城跡。

f:id:yamahito88:20210829163618j:plain

高橋弘厚が知行していた阿須那。

*1:高橋弘厚の松尾城陥落および興光の藤根城陥落は、享禄二年(1529)とする説もある。