戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

長崎 元康 ながさき もとやす

 大内家臣。幼名は才徳丸。仮名は弥八郎。官途名は与三右衛門、後に左近将監。長崎安親の養子。房康の父。沓屋景頼の妻となった娘がいる。大内氏の合戦で警固衆を率いて活躍したが、天文十二年(1543)、出雲遠征において討死した。

長崎安親の危篤

 永正七年(1510)八月以来、長崎安親(勝親の子)は病気を患い危篤状態となっていた。安親は九月二十七日付で譲状まで作成し、十一月には一族の長崎才徳丸を養子とすることを、周防守護代陶興房を通じて主家に申請し、認められた。系図では、この才徳丸を元康としている。

 なお、安親はこの後に病状が回復したらしい。天文十四年(1545)九月、安親所帯が実子・小太郎房次へ継承されている。

kuregure.hatenablog.com

安芸国での戦い

 大永三年(1523)閏三月二十日、長崎弥八郎(元康)は安芸国佐西郡の東山城(桜尾城)改修の為に急いで登城するよう、陶興房から命じられた。大内氏奉行人の杉興重・神代武総からの奉書(命令書)が出ていたらしく、陶弘詮指揮下の大多和但馬守と相談して遂行するよう指示を受けている。当時、大内氏安芸国佐西郡厳島神領を強引に直轄支配下においており、これに反発する神領衆らの不穏な動きがあったとみられる。

 しかし、元康らは城を守れなかった。翌月の四月十一日、厳島神主家の一族・友田興藤が東山城(桜尾城)を奪取。自らを神主と称し、大内氏に反旗をひるがえした(『房顕覚書』)。さらに六月、出雲国尼子経久安芸国に侵入し、平賀氏、毛利氏、吉川氏ら安芸国諸勢力を従えて大内氏の東西条領の主要拠点・鏡山城を陥落させた。これにより、安芸国における大内氏の勢力は大きく後退した。

kuregure.hatenablog.com

 八月一日、大内氏の指揮官・弘中武長が斎藤高利や吉井蔵人、沓屋勝範ら屋代島の大内方警固衆を率いて出陣。十八日に厳島を占領した。元康は武長の指揮下に入り、九月二十日夜に「警固屋舗」に放火している。

 以後も武長指揮下に留まり、毎夜「海上搦」の為に乗船して働いた。特に十月三日には、敵船が厳島を襲撃し、迎撃した大内方警固衆と合戦となった。元康は能美氏らと共に戦って、従僕一人が矢傷を負い、杉興重・陶持長ら大内氏奉行人の連署奉書で褒賞されている*1

kuregure.hatenablog.com

伊予忽那島攻撃

 天文九年(1540)八月十三日、小原隆名率いる大内勢が伊予河野氏の支配する忽那島(愛媛県松山市中島)を攻撃。この時、元康は「警固船幷人数等」をもって馳走した。安芸国白井房胤も、元康同様に警固船を出して攻撃に加わっている(「白井文書」)。翌天文十年(1541)および十一年(1542)には、忽那島を含めた芸予海域で、大内・河野の両陣営警固衆による激しい攻防が繰り広げられる。

kuregure.hatenablog.com

出雲遠征

 天文十一年(1542)、大内氏は尼子氏の本国である出雲への遠征を開始する。七月二十三日、大内軍の主力は尼子氏の有力家臣・赤穴光清の籠る出雲国飯石郡赤穴城(島根県飯南町)を包囲。同月二十七日に総攻撃を行った。元康は赤穴城詰口攻めで奮戦して負傷。指揮官であったらしい弘中興勝から感状を得ている。大内方は多くの死傷者を出しながらも、城将・赤穴光清を討死させた。その後、尼子方は開城に応じて撤退した。

 天文十二年(1543)二月中旬、大内氏当主・大内義隆は、出雲尼子氏の居城・月山富田城の北西約3.5キロメートルにある京羅木山に本陣を移した。三月以降、月山富田城の攻防戦が本格化する。一方で、尼子方の出雲国衆への調略は、失敗に終わった。

 五月七日、大内義隆は総退却を決定。尼子勢の追撃により、多くの大内方将兵が討死あるいは溺死・餓死した*2*3。元康も退却戦の中で死亡した。同年六月二十一日、元服前の子・道祖寿丸(後の房康)に対し、陶氏家臣の安岡房長、江良房栄が連署奉書で、若年のため公役は名代が勤仕するようにという主家の指示を伝えている。

kuregure.hatenablog.com

参考文献

f:id:yamahito88:20220212005257j:plain

厳島の多宝塔の建つ丘から見た大鳥居と大野瀬戸。大永三年(1523)八月以降、長崎元康ら大内方警固衆は厳島を拠点に、友田興藤ら尼子方と戦った。

*1:元康の戦功は、弘中武長からいったん陶興房に報告され、興房から大内義興へ披露されている。

*2:尼子方の赤穴久清は、「同十二年癸卯五月七日、大内敗軍、数千人討取、或沈海河、或忍山林、餓死者不知数」と述べている(「中川士郎氏所蔵文書」)。

*3:大内方で主だった者の討死は、大内晴持(義隆の養嗣子)、細川是久(大内氏の客分か)、右田弥四郎(大内家臣)、福島源三郎(大内家臣)、杉隆宣(大内氏の安芸東西条代官)、黒瀬右京進(大内家臣)、山田範秀(大内家臣)、中山重生(豊前宇佐郡衆)、弘中又士郎(大内家臣・弘中兵庫允の子)、沼田小早川正平(安芸国人)、真田大蔵丞(正平の家臣)、恵良盛綱(豊前宇佐郡衆)、小笠原長次(石見小笠原氏の一族)、多賀高永(出雲国人)など。