戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

宗像 正氏 むなかた ただうじ

 筑前宗像氏当主。仮名は四郎。官途名は刑部少輔。宗像興氏の養子。宗像氏男の養父。宗像氏貞の実父。後に黒川隆尚と改名した。周防大内氏の指揮官クラスの武将として、各方面で活躍した。

宗像氏家督の継承

 永正八年(1511)八月、大内義興に従って上洛していた第75代大宮司・宗像興氏が、山城国船岡山の合戦で討死した。永正十五年(1518)頃、「阿賀法師」への宗像氏家督相続が大内義興によって安堵されている(「宗像神社文書」)。

 「宗像宮社務次第」甲本には「七十六代 正氏 興氏ノ養子也」とあるので、阿賀法師は正氏の童名であるかもしれない。興氏死後、7年が経過しての家督相続だったことになる。

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宗像氏続への相続

 大永七年(1527)八月、大内義興の「裁判」によって、正氏は宗像氏続を猶子として「宗像社家分」を譲った(「宗像神社文書」)。氏続は、正氏の養父・興氏と大宮司職を巡って争った宗像氏佐の子。年未詳十二月、宗像正氏が吉原大炊助に宛てた感状からは、宗像社が鎮座する深田村で合戦があったことが知られる。義興の「裁判」以前に、氏続方と正氏方との間で合戦があった可能性がある。

 なお氏続に譲られた「宗像社家分」は、大宮司として宗像社を経営する神官的側面であったと考えられる。軍事的側面である武家分(武役)が分離され、それぞれ別個に相続されることになった。

 正氏は宗像氏の武家分を担い、大内氏の軍事行動に加わった。大永四年(1524)五月、陶興房に従って安芸国大野城攻めに加勢(「宗像神社文書」)。また年未詳五月には、「去年六月」における筑前国境での戦功*1について、大内義興から感状を受けている(「宗像神社文書」)。

周防に移る

 その後、正氏は大内義隆(義興の子)から周防国吉敷郡黒川郷を給付され、周防に移った。享禄五年(1532)九月、義隆の偏諱を受け、黒川隆尚と改名している(「谷村一太郎蒐集文書」)。黒川郷には鎌倉期に大内氏の分家・黒川氏が存在した。あるいは、この黒川氏を継承したのかもしれない。

 天文十年(1541)七月、筑前宗像沖を通過した策彦周良は「防之太守一家黒川殿食邑也」としている(「策彦和尚初渡集」)。天文十三年(1544)正月には、従五位下に叙せられ、「多々良隆尚」とある(『歴名土代』)。隆尚が、大内氏一族として遇されていたことが分かる。

 義隆に仕えた隆尚は、その奉行人としても活動。享禄年間、正氏の名で杉興重らと連署して、大内家臣・光井兼種に対して石見国への出陣を命じる奉書を発給している(「大内家御判物并奉書写 安富恕兵衛」)。ほかにも天文十四年(1545)九月、豊前国の興国寺に、寺納分捨石につき代所を打渡すことを伝えている(「興国寺文書」)。

筑前国への帰還

 天文元年(1532)、豊後の大友義鑑勢が筑前国に侵攻した。隆尚も大内方として出陣し、筑前国名残城に入城(『筑前国風土記拾遺』)。温料盛長らとともに大友方の立花城攻撃に加わるなどしている。

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 しかし隆尚の筑前入国により、宗像氏続との抗争が再燃した。天文五年(1536)閏十月、九郎という人物が「黒川刑部少輔」との戦いでの「防戦粉骨」したことについて、氏続が感状を発給している(「嶺文書」)。また天文七年(1538)十二月、隆尚の家臣である寺内尚秀と吉田良喜が、占部尚安に対して連署で宗像郡内で知行を宛行っている。

村上海賊衆との戦い

 天文十年(1541)正月十二日、友田興藤大内氏に背いて厳島を占領する。十五日、隆尚は警固船200~300艘を率いて厳島へ向かい、興藤方の能島村上氏ら海賊衆を鳥居沖の海戦で退けた(「棚守房顕覚書」)。隆尚はこの時活躍した中村彦太郎に対し感状を直接発給している(「吉田ツヤ文書」)。感状は宗像氏重臣の吉田氏に伝来していることから、吉田彦太郎は隆尚家臣で宗像水軍の一員であったと推定される。

 正月二十九日、杉宗長・貫武助ら大内氏奉行人が、厳島の造営事業を担う大願寺に対し、「在(有)浦人足并屋敷五ヶ所事」は隆尚と小原隆名に相談して処置するよう伝えている(「大願寺文書」)。隆尚が厳島にそのまま駐留*2し、小原隆名とともに戦後処理にあたっていたことがうかがえる。

氏男と鍋寿丸への相続

 年未詳四月、隆尚が深田氏俊に宛てた書状に、大内義隆の指示で宗像氏続の子・氏男が隆尚の猶子*3となり、「社役武役」の沙汰も一統されたことが記されている(「嶺文書」)。宗像社大宮司職は氏続から隆尚に移り、更に氏男に譲られることになったものとみられる。大内義隆としては、氏続方と隆尚方の大宮司職をめぐる争いを防ごうとする意図があったといわれる。

 この時、隆尚にはまだ幼い実子・鍋寿丸*4がいた。天文十六年(1547)後七月十三日、隆尚は大内氏奉行人宛の書状の中で、鍋寿丸に譲る領地目録等を大内義隆に言上したことや、氏男と鍋寿丸にそれぞれ「家人等当知行」を相違なく支配して義隆へ個別に奉公するよう申しつけた旨を伝えている(「宗像神社文書」)。

 なお隆尚は、この後程なくして亡くなったらしい。宗像市上八の承福寺所蔵の位牌には「天文十六年七月十五日」とある。また17世紀初頭成立の「宗像記」は享年を48歳としている。

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参考文献

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黒川郷に含まれていた山口市朝田岩富小字西殿付近。 岩富には西殿、東殿の小字があり、黒川氏居館があったと推測されている。

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厳島社の鳥居沖。黒川隆尚はこの海上村上水軍を破った。

*1:筑前国守護代・杉興長が山口に注進した。

*2:駐留期間中、隆尚は厳島の住人を被官としている。また厳島社家・野坂房顕とも交流があり、大寧寺の変後、房顕は隆尚の家族の安否を江良房栄(陶隆房重臣)に尋ねている。

*3:隆尚と正室の間の娘が氏男に嫁している。

*4:母は陶隆房の姪で、名は照葉と伝えられる。