戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

パレンケ Palenque

 マヤ低地南部の西端に立地したマヤの古代都市。メキシコ湾岸低地を一望できるチアパス高地山腹の丘陵上に立地する高地性集落。先古典期後期(前400年~後250年)に居住が開始されたが、最盛期は古典期後期であったと考えられている。

パレンケ遺跡

 マヤ文字の解読によれば、古典期には「大いなる水」を意味する「ラカムハ」と呼ばれたとみられる。付近に大河川はないが、山腹から6本の小川が都市に流れ、住民に飲み水を供給した。都市の面積は16平方キロメートルほどで、中心部の2.2平方キロメートルに1500近い建造物が遺跡として登録されている。

 パレンケ遺跡には、最大の神殿ピラミッド「碑文の神殿」(高さ25m、底辺60×42.5m)や王宮の「宮殿」(底辺91×73m)を中心に、傾斜のある屋根、穴の開いた屋根飾り、外壁を飾る漆喰の美しい浮き彫りをもつ建物や球技場が立ち並ぶ。

 「碑文の神殿」は11代目の王キニチ・ハナーブ・パカルを葬り祀る巨大な記念碑的建造物、つまり王陵とされる。その名はピラミッド状基壇の上の神殿内に設置された3枚の大きな石灰岩製石板に由来し、計620のマヤ文字が彫刻されている。

 また「宮殿」には、マヤ文明ではとても珍しい塔建築である四重の塔(高さ18m)がそびえ立っている。監視塔、天文観測や宗教儀礼などに使われたと考えられている。

パレンケ王朝の勃興と勢力拡大

 碑文の解読によれば、パレンケには少なくとも16人の王が君臨。「ケツァル・ジャガー」を意味する初代の王クック・バフラムが古典期前期の431年に王朝を創始したと考えられている。

 583年(敏達天皇十二年)、イシュ・ヨフル・イクナルが女王としてに即位し、604年(推古天皇十二年)に亡くなるまで20年余り統治した。古典期マヤ文明の数少ない女王であり、現在のところパレンケ王朝で確認されている唯一の女王とされる。しかし治世中の599年(推古天皇七年)には、カラクムルを中心とする強大な蛇王朝の攻撃を受け、街が略奪を受けたともいわれる手痛い敗北を喫している。

 女王の死後、アフ・ネ・オール・マトが即位するが、蛇王朝カラクムルからの攻撃は続いた。611年(推古天皇十九年)、カラクムルの王「渦巻き蛇」自身による激しい攻撃の末、パレンケは悲惨な敗北を被ったという。アフ・ネ・オール・マト王もこの翌年に死亡している。

 615年(推古天皇二十三年)7月、キニチ・ハナーブ・パカルが弱冠12歳でパレンケ王朝11代目の王位についた。その初期は、母イシュ・サク・クックが実権を握っていたとされ*1、パカル自身については、626年(推古天皇三十四年)にイシュ・ツァクブ・アハウと婚姻関係を結んだ以外の記録がない。

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 政権運営も多難であった。628年(推古天皇三十六年)、新興のピエドラス・ネグラス王朝と交戦するも敗北。654年(白雉五年)には、カラクムル遠征軍の攻撃も受けている。

 659年(斉明天皇五年)になってパレンケの大攻勢がはじまる。パカル王は、蛇王朝と同盟関係にあったサンタ・エレナ王朝(パレンケの東93km)との戦争に勝利。サンタ・エレナ王朝のヌーン・ウホル・チャフク王と6人の臣下の貴族、および東47kmのボフナ王朝の高位の人物を捕虜にした。

 その後もパレンケは急速に勢力を拡大*2。現在もよく知られるパレンケ遺跡の礎となる多くの建造物が次々と作られていった。

 683年(天武天皇十二年)8月、キニチ・ハナーブ・パカルは死去。その治世は68年の長きに及び、パレンケの最盛期であったと評価される。12代目の王として即位したキニチ・カン・バフラム(パカルの長子)は、パレンケ最大の神殿ピラミッド「碑文の神殿」を築き、その内部の石室墓に父王の遺体を葬った。

 キニチ・カン・バフラムはまた、パレンケ遺跡のシンボルともいえる「宮殿」も拡張。太陽の神殿や十字の神殿、葉の十字の神殿など現存するパレンケ遺跡の大部分は、この王の治世下で完成した建造物とされる。

 さらに687年(持統天皇元年)、パレンケの南65kmにある都市トニナを攻撃し、トニナ王朝2代目王を捕獲。パレンケの広域での優位性も拡大している。また当時カラクムルの支配下にあったモラル・レフォルマという街に乗り込み、傀儡の人物を王位に据えるなど、カラクムルへの対抗措置もとっている。

王朝と都市の衰亡

 702年(大宝二年)、キニチ・カン・バフラムが死去し、57歳となっていた弟のキニチ・カン・ホイ・チタムが新たな王として即位。多くの建設を推進したが、711年(和銅四年)にトニナ王朝との「星の戦争」に敗れて捕虜となった。以降、パレンケはトニナに対し劣勢となる。

 721年(養老五年)、パカルの孫と考えられるキニチ・アフカル・モ・ナフブが即位。パレンケの栄華を取り戻そうとしたのか、十字グループの南に18号、19号、21号神殿などを造営した。

 しかし衰退はとまらなかった。数代の代替わりを果たしたのち、799年(延暦十八年)にハナーブ・パカルという人物が王位についたことが、土器の碑文から分かっている。そして、これがパレンケ遺跡の碑文の日付の最後とされる。

 なおパレンケ遺跡の発掘調査から分かる都市の領域の縮小は、750年頃からはじまる。マヤ文字の解読から、この頃に再度トニナに敗北したことがわかっており、これが契機となった可能性も指摘されている。そして、799年にハナーブ・パカルが王位に就いてすぐに、パレンケの都市中心部と大部分の都市範囲は放棄される。その後も人口が減少し続け、10世紀に入った頃に都市自体が放棄された。

関連交易品

参考文献

  • 青山和夫 『シリーズ:諸文明の起源11 古代マヤ 石器の都市文明』 京都大学学術出版会 2005
  • 青山和夫 『マヤ文明の戦争―神聖な争いから大虐殺へ』 京都大学学術出版会 2022
  • 鈴木真太郎 『古代マヤ文明―栄華と衰亡の3000年』 中央公論社 2023
  • 嘉幡茂 『図説 マヤ文明』 河出書房出版 2020
  • 『特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン 展覧会図録』 2023

パレンケの「碑文の神殿」 from 写真AC

パレンケ宮殿の塔を描いた図面の複製写真 1870年 - 1880年
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

道標 600~800年
パレンケ中心部と周辺の町をつなぐ道の開設を記念して建てられた石彫と考えられている
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

パカル王とみられる男性頭像(複製)。本作の原品は「碑文の神殿」のパカル王墓内で見つかった。
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

マヤの儀式で用いられた香炉台。パレンケ特有の香炉台には、神や人の顔が描かれた。この香炉台の顔はキニチ・カン・バフラムのものとされる
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

香炉台
マヤの儀式ではコーパルという木の樹脂から作られた香がよく用いられたという。本作は、マヤ神話上の鳥の神が描かれたものと考えられている。
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

書記の石板 725年頃
パレンケのキニチ・アフカル・モ・ナフブ王の高官が、苦行の儀式を暗闇で行ったこと、その儀式が王ないしパレンケの守護神の臨席のもとになされたことが記されている
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

96文字の石板
783年にキニチ・クック・バフラム王の即位20周年を記念して彫られたもの
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

キニチ・アフカルを表す文字
パレンケの18号神殿から出土。王の名前の前半部キニチ・アフカルを示している
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

*1:パレンケ遺跡の「宮殿」の正面(東側)の部屋の壁に嵌め込まれた「楕円形の碑石」(654年)では、パカルが超自然的な双頭のジャガー玉座に座し、月の女神に扮した盛装で網目状のロングスカートを着用した母イシュ・サク・クックから戦士の王冠を受け取っている。

*2:662年にもパカルの臣下がサンタ・エレナの王を攻撃している。