戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

石田 春俊 いしだ はるとし

 石見国邇摩郡波積郷の地侍。官途名は主税助。毛利氏の警固衆として軍事活動の一翼を担った。平時には船を用いて経済活動を行っており、毛利氏領国の諸関での役料免除特権を与えられている。

石田氏の所領

 江戸期の石田氏は波積本郷の庄屋であり、文化十四年(1817)成立の地誌『石見八重葎』は、石田主税助(春俊)について「波積本郷利光ノ城主市場初代」とする。これらのことから石田氏の本拠地は、石見国邇摩郡波積郷であったとみられる。

 石田春俊について年次が確定できる史料のうち、最も早いものが永禄五年(1562)七月とされる。この時、春俊は毛利元就・隆元父子から「温泉津町之内岡五郎左衛門屋敷一所」を給付されている(「熊谷家文書」)。次いで同年十二月には邇摩郡波積郷内で計8箇所(分銭7貫100文)の給地を遣わされており、永禄七年(1564)十月には「温泉南分」でも17貫800目の給地を与えられている。また年次不明だが、「温泉三方」でも15貫の給地が付与されている*1

 石田氏の所領は本拠地と考えられる波積郷内の当地行地、温泉津内の屋敷、そして温泉津周辺地域(南分・三方)における給地で構成されていたことがうかがえる。その大半は、後述のように毛利氏に協力したことに対する恩賞として得た所領だった。また本拠地と考えられる波積郷の給地については、計8箇所が郷内に散在していた。

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 元亀三年(1572)十二月、春俊は毛利輝元から「波積当知行分幷温泉津町屋敷壱所等」の安堵を受けている。このことから、波積を中心としつつ温泉津周辺以外では特段の所領を持っていなかったことが分かる。

 上記の所領分布を踏まえ、石田春俊は、波積郷内における村落指導者のような名主クラスの地侍であった可能性が指摘されている。

毛利方としての軍事行動

 永禄五年(1562)十一月、毛利氏は銀山山吹城の本城常光一族を討滅。詳細は不明ながら、毛利元就は武安就安に何事か命じていたらしく、この件での石田春俊の「辛労」をねぎらっている(「石見石田家文書」)。この時点で春俊が武安就安の配下として活動していることが分かる。

 また年未詳ながら、毛利元就が児玉就久と武安就安とに「舟かけ」(軍事的示威行動か)を命じた文書が石田家に残されている。当時石田氏が、児玉就久と武安就安*2の指揮下で船を駆使し、「舟かけ」などの軍事活動を行っていたことがうかがえる。

 永禄十二年(1569)、春俊は場所は不明ながらも長期の「城番」をつとめた。九月晦日、このことについて毛利元就は春俊宛の書状を発給し、「長々辛労之至候」と慰労するとともに、「同道之者共」を率いての更なる活躍を命じている。

 永禄十三年(1570)二月十四日、毛利氏は前年に挙兵した尼子勝久の軍勢を布部の戦いで破る。同月十七日、毛利元就は敗走する敵方の討伐を児玉就久と武安就安の両温泉津奉行に命令*3。石田氏も児玉就久・武安就安の配下として尼子方討伐に動員されたとみられる*4

 さらに同年四月十四日、春俊は吉田伯耆守ら9名を率いて出雲高瀬から杵築に「夜勤」を仕掛け、これを元就に報告している。この春俊が率いた9名は、前述の永禄十二年九月晦日付の元就書状にみえる「同道之者共」と同じ性格の者かもしれない。

 なお、同道衆の一人である吉田伯耆守は、『石見八重葎』に波積郷に近い福光郷飯原村の「古城」の城主としてみえる。春俊は吉田伯耆守のような同階層と思しき人物を率いて軍事行動を行っていた可能性がある。そうであれば、石田氏は波積郷や福光郷といった近隣の郷村内における村落指導者層ネットワークの一員でもあり、その中心的存在として活動していたといえる。

石田氏の海上活動

 毛利元就没後の元亀四年(1573)五月、春俊は毛利氏奉行衆から「数年御警固」の「馳走」に対する褒賞として、年間2艘分の「御分国中勘過」を認められた。ただし、温泉津のみは「各別」(例外)として「役料」の納入を命じられている。すなわち、石田氏が長年の警固活動によって、毛利氏から領国内の「諸関」での自由通行(「役料」の免除)権を得たことが分かる。

 生前の毛利元就は年未詳正月十九日、児玉就久を温泉津に派遣し、「石州ニ小浦被拘候衆」を率いて出雲杵築浦の警固に向かわせることを吉川元春に書状で伝えている(『萩藩閥閲録』巻5)。春俊の船による軍事活動、および温泉津奉行との関係性をふまえ、春俊が「石州ニ小浦被拘候衆」の一人であった可能性が指摘されている。

 これらのことから、石田春俊は本拠の波積郷の最寄りの浦(港湾)などに船を碇泊させ、日常的に経済活動を行っていた可能性が高い。そして戦時には温泉津奉行の指揮下に入り、警固衆として軍事活動を展開していたとみられる。

 春俊は温泉津の造営事業にも関わっていた。永禄十一年(1568)四月、温泉津奉行である武安就安と児玉就久を大檀那として、温泉津小浜地区に厳島神社を造営。地誌『石見八重葎』には、その際の造営棟札の写があり、「普請奉行」として「石田主税助」とともに「加戸善左衛門」と「加戸神右衛門」の名前が記されている*5

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 なお温泉津海蔵寺の鐘には以下のような銘がある。

天正十年壬午五月十六日大願主石田主税之助藤原春俊

 天正十年(1582)五月、石田主税助春俊が大願主となって温泉津海蔵寺に梵鐘を寄進したことが分かる。

参考文献

波積本郷の利光城跡

*1:慶長二年(1597)十二月十日付「地銭・諸役銀付立写」によると、温泉三方のうちの邇摩郡西田において屋敷を有していた人物の中に「石田市右衛門」の名がみえ、石田氏との関連が指摘されている。

*2:児玉就久と武安就安の両名とも毛利氏の温泉津奉行人。

*3:「銀山衆」も全員出撃させるよう、併せて指示している。

*4:児玉就久と武安就安の両名宛の毛利元就書状は石見石田家に残されている。

*5:『石見八重葎』には、慶長十六年(1611)四月の再建の際も、石田主税助の嫡子「石田孝内常春」が関与したことが記されている。