毛利家臣。官途名は二郎左衛門尉。毛利氏に討滅された本城常光の家臣の一族とみられる。毛利氏が本城氏から山吹城を接収すると、銀山代官として銀山支配に関わった。また銀山には就久の他にも服部一族が多く居住していたことが「浄心院姓名録」から分かっている。
本城氏の滅亡と服部氏
服部就久は本城常光家臣の出身と推定されている。本城氏は石見国阿須那(現在の島根県邑南町阿須那)を本拠とした国人高橋氏の一族であり、享禄二年(1529)または享禄三年(1530)に、惣領家が周防大内氏・備後和智氏・安芸毛利氏によって滅ぼされると出雲尼子氏に属した。
その後、本城常光は出雲国須佐郷を拠点としていたが、弘治二年(1556)に尼子氏が石見銀山(佐摩銀山)を攻略すると、銀山山吹城の城番となった。一方で永禄三年(1560)頃には毛利氏と何らかの交渉を行っており、永禄五年(1562)六月、毛利氏の調略を受けて投降した。
しかし同年十一月、毛利氏の出雲侵攻に従軍していた本城常光は、毛利元就の命令を受けた吉川氏により出雲国宍道の丸倉城山麓の幡屋で一族とともに討滅される。元和四年(1618)頃成立といわれる「森脇覚書」によれば、その際に常光家臣の服部若狭が吉川勢に切り掛かって抵抗したが、森脇一郎右衛門によって打ち取られている。
本城常光は毛利氏への降伏に際して、山吹城を明け渡していなかったらしく、同城には本城氏の城番が籠っていた。常光討滅の際の山吹城について「森脇覚書」には、以下のように記されている。
銀山城ニハ服部治部と申もの番に罷居候、吉川和泉・山県左京、彼面被遣候、御本陣より上之山と申人被参候、城無異儀相渡、治部御馳走だて仕候、後ニハ池田(生田)ニ被相添、銀山の代官ニ被仰付候
常光が山吹城城番としていた服部治部は、抵抗せずに城を毛利方に明け渡した。この功績により服部治部は「池田」(生田)とともに銀山代官に任じられたという。なお服部治部とともに銀山代官に任じられた「池田」(生田)は、毛利元就の直臣の生田就光に比定されている。
石見銀山代官
服部就久は、前述の服部治部の後継者等である可能性が高いとされる。毛利氏支配下においても引き続き銀山支配を担い、毛利元就から偏諱を受けて「就久」と名乗ったと推定されている。
永禄十年(1567)四月には、出雲国杵築大社の大日堂の造営に際して、檀那として「服部次郎左衛門就久・生田左衛門大夫就光」の名が確認できるので(「佐草家文書」)、この頃には生田就光とともに銀山代官として活動していたとみられる。また永禄十一年(1568)五月にも、毛利元就が大檀那となった銀山内の真言宗長楽寺の造営に、生田就光と服部就久の両名が関わっていることが確認できる(島根県立図書館蔵「宝物古器物古文書目録」)。
銀山代官としての給地は、銀山六谷の一つである下河原に与えられていたらしい。天正九年(1581)七月五日付の「銀山納所高辻」に、「九拾壱貫 下河原 生田・服部分」とある(「毛利家文書」)。服部就久の給地は下河原の蔵泉寺口近辺にあったようで、年未詳十二月十四日付で毛利輝元から安堵を受けている(「本城家文書」)。
銀山居住の服部一族
16世紀の石見銀山には、系譜関係は不明ながら、就久の他にも何人かの服部一族が居住していた。
「浄心院姓名録」*1には服部孫十郎*2、服部小七郎、服部和泉屋*3、服部左兵衛丞、服部利右衛門*4らの名前が記されている。
このうち、服部小七郎は栃畑在住で天正十三年(1585)と記されている。「厳島廻廊棟札写」によれば、天正十六年(1588)九月に安芸国厳島神社に廻廊を寄進している(「大願寺文書」)。
また服部左兵衛丞は、昆布山出土(だしつち)在住、文禄二年(1593)と記されている。天正十九年(1591)の「毛利氏八箇国御時代分限帳」によれば、安濃郡において30.024石の給地を毛利氏から与えられていた。
慶長四年(1599)頃、当時の毛利氏の「銀山代官衆」と考えられる高須元与が、下代・当役人の今井越中守・石田喜右衛門尉・宗岡弥右衛門尉・吉岡隼人に対して「宗左*5番屋」に関する依頼を行っている(「吉岡家文書」)。元与は書状の最後に「委細服左兵へ申達候」と記しており、「服左兵」(服部左兵衛丞)が高須元与のもとで銀山支配に関わっていたことがうかがえる。