戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

トニナ Toniná

 海抜800〜900mの丘の上と山腹に建造されたマヤ古典期の高地性集落。現在のメキシコのチアパス州に位置した。なお「トニナ」は現代の呼称で、古典期には「ポ」または「ポポ」と呼ばれたとみられる。

トニナ遺跡

 トニナ遺跡では、300以上の砂岩製彫刻*1や漆喰彫刻に王や戦争捕虜の図像及び碑文が刻まれ、少なくとも10人の王が君臨したことが分かっている。化粧漆喰のレリーフにみられる造形美は卓越しているとされ、北へ64.5kmのところにあるパレンケ遺跡のそれにもひけをとらないとの評価もある。

 遺跡の中心である「アクロポリス」(高さ70m、底辺320×320m)は、山腹を人工的に整地した計7段のテラス状基壇からなり、260日暦*2と同じ260段の階段が設けられた。

 「アクロポリス」の上には13の神殿、8つの宮殿や数多くの石造記念碑が配置された。その6段目の「4つの時代の漆喰彫刻」は、生首が吊るされた羽毛の生えた枠によって場面が四分されている。枠内には、骸骨の姿をした死神が捕虜の生首の髪の毛を掴んでぶら下げている。7段目には有名な「捕虜の神殿」がある。その基部には縛られて跪く捕虜の漆喰彫刻があり、持ち送り式アーチの狭い部屋が残っている。

 「アクロポリス」の頂上には「曇った鏡の神殿」があり、オコシンゴ盆地を一望できる。「アクロポリス」を構成する段(テラス)と神殿群は、かつてなめらかな化粧漆喰が施され、その上は鮮やかな色調で彩られており、オコシンゴ盆地のランドマークであったとみられる。

 トニナは高地に位置しながらも、完全に古典期マヤの伝統を保持した数少ない遺跡の一つで、古典期マヤの中心地である低地の文化とつねに接触を保っていた。このため、低地と高地のあいだの交易の接点として機能していた可能性が指摘されている。

トニナ王朝の始まり

 トニナで8世紀に書かれた碑文には、217年の日付とともに回顧的に言及されている王が登場する。しかし、称号だけしか記されておらず、この王が実在したという証拠は見つかっていない。

 実在が確認できる最初の王は、しかし名前が解読されておらず「支配者1」の名称で呼ばれている。514年(継体天皇八年)の日付の祭壇に名前の文字がみえる。

 568年(欽明天皇二十九年)、「ジャガー・鳥・イノシシ」という名の王が即位(石彫177)。この頃からトニナ以外の場所でも、トニナ王朝についての記述がみえる。

 トニナから北東へ72kmのところにあるウスマシンタ河沿いのチニキハ遺跡の祭壇の碑文は、573年(敏達天皇二年)にトニナの人が捕らわれたことを記す。また現在タバスコ州エミリアーノ・サパタという町に所蔵されている出土地不明の盗掘品の石板には、チャク・ボロン・チャークというトニナ王の墓への訪問が記されている。年代は589年(崇峻天皇二年)と推定されている。

 668年(天智天皇七年)、「支配者2」として知られる王が即位した。彼の治世では、トニナでもっとも特徴的なモニュメントとされる「巨大なアハウ」の祭壇が製作されはじめた。「巨大なアハウ」の祭壇は大型で円形の祭壇で、主要な暦の節目を祝う儀礼のため設置された*3。またトニナの代表的なモニュメントである「縛り上げられた捕虜」の石彫が作られるようになるのも、「支配者2」の時代からとされる。

 しかし687年(持統天皇元年)、トニナは北方のパレンケの侵攻を受け、略奪あるいは征服された。敗北した「支配者2」のその後は不明だが、翌年の688年(持統天皇二年)には次の王キニチ・バークナル・チャーク(「偉大な太陽・骨の地・雨の神」)が即位している。

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パレンケとの戦い

 トニナは35歳で王に即位したキニチ・バークナル・チャークのもとで政治的にも軍事的にも最盛期を迎える。

 692年(持統天皇六年)、キニチ・バークナル・チャークはパレンケ王朝を攻撃し、カウィール・モとブック・サークという名前の高位の貴族の捕獲に成功した。トニナ遺跡の「石彫172」には、後ろ手に両腕を縄で縛られ跪くカウィール・モの図像が刻まれている。その碑文には692年10月にパレンケ王朝のアフ・ピツィル(当時のパレンケ王キニチ・カン・バフラムの幼名)に「星の戦争」を仕掛けたことが記載されている。

 さらに693年(持統天皇七年)、パレンケ王朝に従属していたウスマシンタ川流域の北東68kmのラ・マル王朝の高位の貴族チャン・マースを捕獲。699年(文武天皇三年)にキニチ・バークナル・チャークによって建設されたとみられる壮大な球技場1の傾斜壁には、チャン・マースを含む6人の捕虜の石造彫刻が設置されている。チャン・マース以外に読むことができる捕虜の名前は、前述のブック・サーク、東99kmに立地するウスマシンタ川流域アナイテ王朝のヤシュ・アフク王、そして碑文の腐食により治めた都市が不明のサック・バフラム王である。

 ヤシュ・アフク王とサック・バフラム王は、パレンケ王朝のキニチ・カン・バフラム王に従属したアハウ(王)であった。「石彫155」には、捕虜にされたヤシュ・アフク王が彫刻されており、後ろ手に縄で縛られて座し、火と戦争の守護神である地下界のジャガー神の装身具を身に着けている*4

 上記のことから、トニナ王朝がキニチ・バークナル・チャーク王のもとでウスマシンタ川流域にも勢力を伸ばしたことが分かる。ボナンパック遺跡近辺から出土したマヤ文字の碑文が刻まれた小さな石柱(715年)にも、702年(大宝二年)にウスマシンタ川流域のボナンパック王朝の王が、トニナのキニチ・バークナル・チャーク王に政治的に従属したことが記されている。

 708年(和銅元年)、次のトニナ王である「支配者4」が即位。この王の読み方は分かっていないが、706年(慶雲三年)生まれであり、高位の貴族の後見のもと2歳で王位についた。

 711年(和銅四年)、トニナ王朝はパレンケ王朝との「星の戦争」に勝利。パレンケの王キニチ・カン・ホイ・チタム(キニチ・カン・バフラムの弟)を捕虜とした。トニナ遺跡の「石彫122」(711年)には、捕虜にされた66歳のパレンケ王キニチ・カン・ホイ・チタムの図像が彫刻されている。その姿は、上腕部を縄で縛られ、腰布だけを身に着けた半裸であり、捕虜の目印である紙の耳飾りを着けさせられている。

蛇王朝カラクムルとの関係

 「支配者4」の時代、トニナは北東268kmの強国である蛇王朝(首都はカラクムル)とも戦った可能性がある。トニナ遺跡の「石彫153」に描かれた捕虜の褌の部分には、「トニナの支配者4に捕らえられたアフ・チーク・ナフブ(カラクムルの人の意)」と刻まれている。あるいはトニナと戦ったいずれかの国に派遣されたカラクムルの援軍を破った可能性もあるという。

 723年(養老七年)、トニナでは次の王キニチ・イチャーク・チャパト(「偉大な太陽・鉤爪・ムカデ」)が即位。この王は先々代の偉大な王キニチ・バークナル・チャークに特別な思い入れを示し、730年(天平二年)の6月にはキニチ・バークナル・チャークの墓で「火を入れる儀式」を行っている。トニナで発見された墓の一つからは、燃やされた骨片が入れられた壺がみつかっているが、この壺は、こうした儀礼と関係のある遺物と考えられている。

 また、その少し前の727年(神亀四年)には、キニチ・イチャーク・チャパト王と何らかの政治外交的関係があったらしいユクノーム・トーク・カウィール王(当時のカラクムルの王と考えられている)と、10歳代のキニチ・バークナル・チャークが球技をする姿を示す「石彫171」が作られている。

 前述のとおりキニチ・バークナル・チャークは既に故人であり、「石彫171」は現実には存在し得ない球技の様子を表している。蛇王朝カラクムルとの関係修復を図るため、両者の友好関係を想起する時代を描いた可能性もあるという。

最後の繁栄と衰亡

 トニナは756年(天平勝宝八年)に生まれた「支配者8」の治世にふたたび繁栄の時代をむかえる。王はアクロポリス上部の建造物の改築を行い、そこに多くの埋納品が納められた。

 いくつかの新しい捕虜の彫像も製作された。トニナ遺跡の「石彫83」には、796年(延暦十五年)の「星の戦争」で捕獲した、東75kmに立地するウスマシンタ川流域のラカンハ・ツェルタル(マヤ文字でサック・ツィ)王朝のハツ・トカル・エック・ヒシュ王ともう一人の高位の捕虜が、互いに髪の毛を掴んで格闘する図像が刻まれている。

 また789年(延暦八年)に以前からのライバルであったポモイに攻撃を仕掛け、ウチャーン・アフ・チフという高位の人物を捕虜にしたことが記録されている。碑文には、「支配者8」が799年(延暦十八年)にトニナの「支配者1」の墓に2度目の火を入れる儀式を行ったことも記されている。

 一方で799年(延暦十八年)の儀式は王と王朝の権威を維持することが目的であったとする考え方もある。800~830年頃にかけて、パレンケを含む多くのマヤ都市が放棄されており、トニナも衰退期に入っていた。ただトニナは比較的孤立した場所にあったためか、以後もモニュメントが建てられ、碑文による歴史の記録が続いた。

 904年(延喜四年)、「石彫158」がアクロポリスのもっとも高いところにある建物D5‐2の南東の隅に建てられた。それは、通常の半分の大きさの粗雑なものであり、どの文字が王の名前であるのかすらもわからないという。

 5年後の909年(延喜九年)に「石彫101」が建てられたが、これが古典期マヤでの最後の碑文となる。10世紀初頭に支配層の住居区が焼かれており、戦争があった可能性があるという。

 なお、トニナ遺跡ではそれよりも遅い時期の土器が確認されている。碑文記録が途絶えたあとも1世紀かそれ以上にわたり人が住み続けたらしい。

トニナの末裔

 1558年(永禄元年)、この地域でスペイン人に対する反乱が勃発。反乱を起こした人々は、「ポ・ウィニコブ(「ポの人」)と名乗っていたという。この反乱が鎮圧された後、彼らはトニナ遺跡から西に13kmの所にある現在のオコシンゴ周辺に強制的に移住させられている。

 かつてのトニナ王の称号はクフル・ポ・アハウ(「ポの神聖王」)であったことから、この「ポの人」たちが古典期のトニナに居住していた人々の末裔であるとする見方もある。

関連交易品

参考文献

  • サイモン・マーティン、ニコライ・クルーべ(監修者 中村誠一、訳者 長谷川悦夫、徳江佐和子、野口雅樹) 『古代マヤ王歴代誌』 創元社 2002
  • 青山和夫 『シリーズ:諸文明の起源11 古代マヤ 石器の都市文明』 京都大学学術出版会 2005
  • 青山和夫 『マヤ文明の戦争―神聖な争いから大虐殺へ』 京都大学学術出版会 2022
  • 『特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン 展覧会図録』 2023

【トニナ石彫153】
トニナには捕虜を描いた石彫が特に多いく、好戦的な傾向が推定されている。褌の部分に彫られた文字から、「トニナの支配者4」(名の読み方は不明)に捕らえられたアフ・チーク・ナフブ(カラクムルの人の意)であることが分かっている。
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

【トニナ石彫171】
球技の場面を描いた石彫。中央のゴムボールの上にマヤ文字で西暦727年にあたる年が記されている。
右の人物はユクノーム・トーク・カウィールという名で、当時のカラクムルの王と考えられている。左は20年前に亡くなったトニナの王キニチ・バークナル・チャークの10代の姿であることが碑文にみえる。詳細は不明ながらトニナとカラクムに何らかの外交関係があったことがうかがえる。
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

【トニナ石彫159】
トニナ王に捕らえられたポモイの捕虜が描かれている。
碑文にはほかにも、当時のトニナ王が「9人ないし多数の捕獲者」の称号をもっていたこと、西暦799年に先祖の墓に火を入れる儀式を行ったことが記されている。
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

【猿の神とカカオの土器蓋】
トニナで出土した土器蓋。猿の神を表し、首には猿の好物カカオの実の装飾がみられる。メキシコのチアパス州からグアテマラにかけての太平洋岸が特に重要なカカオの産地であり、ここからメソアメリカ各地に輸出されたという。
「特別展 古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカン」([大阪会場]国立国際美術館)にて撮影

*1:トニナ特有の美術様式で、ひとつの石を立体的に彫り出した砂岩の石碑がある。

*2:マヤ文明において使われていた暦。260日を一週期とし、神聖暦とも呼ばれる。

*3:トニナの他に「巨大なアハウ」の祭壇を熱心に製作した王朝にカラコルがある。

*4:また、狭い部屋に押し込められた構図なので、右肩を下にして顔を窮屈そうに上に向けている。