戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

笛吹きボトル(中南米) ふえふきぼとる

 紀元前から紀元後16世紀まで南米で栄えたアンデス文明では、水や空気を入れると音が鳴る「笛吹ボトル」と呼ばれる土器が数多く使われていた。儀式の際などに神聖な酒「チチャ」を注いで音を鳴らしたともいわれる。その内部構造は複雑で、製法や音の鳴らし方については、いまだ不明な点が多いという。

チョレーラ文化と笛吹きボトルの始まり

 様々な証拠から、最古の笛吹きボトルは、エクアドル太平洋岸で紀元前1000年頃から紀元前100年頃まで続いたチョレーラ文化で誕生したと考えられている。

 初期の笛吹きボトルはシングルチャンバー(単胴)タイプだった。チチャ酒(トウモロコシを発酵させて作られる酒)の入った甕に浸けると、注ぎ口から入った酒により中の空気が圧縮され、内蔵の笛玉(ホイッスル)からシンプルな「ピー」という単音が鳴る。

 その後、チョレーラ文化では、筒でつながった二つのボディを持つダブルチャンバー(双胴)タイプの笛吹きボトルがあらわれる。このタイプは、酒を入れた後に左右を交互に上下させることで、移動した酒によって圧縮された空気が笛を鳴らす。筒を通じて空気と水が複雑に行き来し、鳥のさえずりのように音程やリズムに変化のある音が出る。

 チョレーラ文化以降、笛吹ボトルはインカ帝国の時代まで、約2500年間にわたり作り続けられることになる。時代が新しくなるにつれ、ダブルチャンバータイプのような複数胴を持つタイプが主流になっていった。

ビクス文化での発展

 チョレーラの笛吹きボトルは、周辺地域に伝播。チョレーラの南方、ペルー極北地方(エクアドルとの国境近く)に栄えたビクス文化において、大きな技術革新を遂げたとされる。大音量や複数音階を出すことができるもの、単胴に見えながら内部は複数胴的構造になっているものが確認されている。

 「連結笛玉」はその顕著な例とされる。連結笛玉とは、ドーム型の通風ダクトが笛玉に接続した部品で、ダクトを通じて圧縮された空気が笛玉に送り込まれる仕組みになっている。さらにそこにドーム状の共鳴室をかぶせ、音を響かせるための空間を作ることで、それら全体が一体となって音に多様性をもたらすという。

 笛吹ボトルはさらに南方のナスカ文化(ペルー南海岸)にも伝わった。ナスカ文化は多彩色土器を発展させたことで知られる。

 ナスカの「人物象形双胴笛吹きボトル」は、聖獣ジャガーの斑点模様付きの服を着た人物と、色とりどりのトウガラシが描かれている。人物の頭部はビクス文化と共通する共鳴室となっており、内部の笛玉との間に空間があり、音を力強く響かせる。

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インカ帝国への継承

 ペルー北部において1375年(永和元年)まで栄えたシカン、およびシカンを征服したチムー王国においても笛吹きボトルは生産された。橋形把手に笛玉が埋め込まれた様式が、両文化の笛吹きボトルには多く見られるという。またチムーは黒色土器の生産で知られ、笛吹きボトルもまた黒色のものが多い。

 1470年(文明二年)、チムー王国インカ帝国に滅ぼされる。一方で、インカ帝国は征服した国や地域の自治を許したため、アンデス各地の文化様式も継承された。インカ帝国時代の笛吹きボトルには、チムーで数多く製作された黒色土器の伝統を受け継いだものもみつかっている。

笛付き土偶と土笛

 エクアドルのチョレーラ文化は笛吹きボトルを生み出したが、エクアドル北部では「笛付き土偶」が作られた。笛付き土偶は、笛吹きボトルに内蔵されていた笛玉(ホイッスル)を土偶に埋め込んだもので、土偶のボディをパイプ(=吹き口)替わりに使い、人が息を吹き入れて鳴らした。

 エクアドル以北では、儀式において聖なるトウモロコシ酒である「チチャ」を使用しなかった。このため、同地域では儀式用に笛付き土偶を作ったとも考えられている。

 笛付き土偶もまた時代を経て進化していく。バイーア文化(エクアドル中部海岸)の「笛付き女人土偶」は、内部に音階の違う笛玉が二個埋め込まれており、また複雑な送風調整装置によって四種類の和音的音が出るようになっている。

 笛付き土偶の次に土笛が作られた。土笛は、笛玉自体を大きくし、息を吹き入れるパイプとして、土偶ではなくて筒状専用吹き口をつけている。

 画期的な点として、大きくなった笛玉のボディにいくつか穴を開けて、それを指で開閉することで複数の音階を出した。これらの音階にはドレミのようなルールはなく、曲を演奏するものではなく、あくまで儀式を盛り上げるための発明だったとされる。

 現在のコスタリカで栄えたニコヤ・グアナカステ文化は、中南米の中でも土笛の一大産地だった。16世紀、この地を征服したスペイン人は、数多くの土笛を本国に持ち帰ったという。

参考文献

  • BIZEN中南米美術館(岡山県備前市日生町)の解説パネル 2023・2024
  • 真世土マウ 「先スペイン期から鳴り続ける陶工たちの音」(『東京大学総合博物館ニュース』Volume24 Number3 2020)
  • 鶴見英成 編 特別展示『ボトルビルダーズ――古代アンデス、壺中のラビリンス』パンフレット 2020

古代アンデス文明および中間領域マップ

【単胴笛吹きボトル】
エクアドル海岸地方 チョレーラ文化(紀元前1000~前100年)
甕に浸けて笛玉を鳴らすタイプで、笛の音は「ピー」という単音。
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【鳥付き双胴笛吹きボトル】
エクアドル海岸地方 チョレーラ文化(紀元前1000~前100年)
水や酒を入れた後に左右を交互に上下させ、移動した水(酒)で圧縮された空気が内蔵の笛玉を鳴らす。筒を通じて空気と水が複雑に行き来し、鳥のさえずりのように音程やリズムに変化のある音が鳴る。
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影南米美術館にて撮影

鳥付き双胴笛吹きボトルのCTスキャン画像

【人物付き単胴笛吹きボトル】
エクアドル北中部海岸 ハマ・コケア文化(紀元前300~紀元800年)
チョレーラ文化圏の北で栄えたハマ・コケア文化の単胴笛吹きボトル。笛玉の位置が比較的注ぎ口に近い近いため、チチャ酒の甕に浸けて鳴らすのではなく、注ぎ口を吹いて鳴らした可能性があるという。後の笛付き土偶の原型であった可能性もある。
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【ビクス文化の笛吹ボトル】
ペルー極北海岸 ビクス文化(紀元前100~紀元400年)
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【ビクス文化の笛吹ボトル】
ペルー極北海岸 ビクス文化(紀元前100~紀元400年)
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【人物象形双胴笛吹ボトル】
ペルー極北海岸 ビクス文化(紀元前100~紀元400年)
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【人物象形双胴笛吹きボトル】
ペルー南海岸 ナスカ文化(紀元前50~紀元800年)
聖獣ジャガーの斑点模様付きの服を着た人物と、色とりどりの唐辛子が描かれている
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【人物・鳥像付き鐙型笛吹きボトル】
ペルー北海岸 モチェ文化(紀元前50~紀元700年)
つま先立ちをした人物が吹き矢で鳥を打ち落とす形状の単胴笛吹きボトル
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【人物付き複数胴笛吹きボトル】
ペルー北海岸 シカン文化(紀元700~1375年)
橋形把手に笛玉が埋め込まれた様式はシカンやチムーの笛吹きボトルに多く見られる
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【動物付き笛吹きボトル】
ペルー中央海岸 チャンカイ文化(紀元1200~1470年)
白をベースに黒や茶色の彩色を施すという典型的なチャンカイ土器の複数胴笛吹きボトル。大型のボディーの前面に猿の土偶が付いている
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【人物象形双胴笛吹きボトル】
ペルー北海岸 チムー文化(紀元850~1470年)
シカン文化の作品と同じく橋形把手に笛玉が設置されている
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【人物像付き三胴笛吹きボトル】
ペルー北海岸 チムー文化(紀元850~1470年)
薪を抱えた人物像が付いている。三つの胴部があるが、内部が繋がり機能しているのは二つだけで、一つはいわばダミー。
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【黒色双胴笛吹きボトル】
ペルー北海岸 チムー文化(紀元850~1470年)
チムー王国インカ帝国に滅ぼされるが、チムーで数多く製作されていた黒色土器の伝統はインカ帝国時代にも継承されたという
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【笛付き土偶
エクアドル北中部海岸 ハマ・コケア文化(紀元前300~紀元800年)
笛吹きボトルと違い、笛付き土偶は人が吹く。笛玉が内蔵されており、土偶の体は笛玉に息を入れるパイプとして使われる。笛玉一つに音階は一つ。
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【笛付き女人土偶
エクアドル中部海岸 バイーア文化(紀元前500~紀元650年)
笛玉が外から見えないことが特徴。さらに、音階の違う笛玉が二個内蔵されており、四種類の和音的音を出すことができるという
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【笛付き女人土偶
エクアドル中部海岸 バイーア文化(紀元前500~紀元650年)
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影

【ニコヤ・グアナカステ文化の土笛】
コスタリカ北部太平洋岸 ニコヤ・グアナカステ文化(紀元800~1500年)
中南米の中でも現在のコスタリカは土笛の一大生産地だった。この地を征服したスペイン人が土笛をヨーロッパに持ち帰ったことで、後にオカリナのモデルともなったという
画像はBIZEN中南米美術館にて撮影